動画で学ぶ映画史(4)―表現主義、シュールレアリスム



 映画の映像表現は、1920年代において、イタリア未来派ロシア・アヴァンギャルドドイツ表現主義(ダダなど)、フランスのシュールレアリスムなど、ヨーロッパで同時多発的に勃興したアヴァンギャルド芸術の運動の中で、次々と革新的な表現が行われ、表現の幅を広げていく。とりわけ映画において最初に革新的な表現がなされていったのは、ドイツ表現主義である。


 ロベルト・ヴィーネ「カリガリ博士」(1920)



 ロベルト・ヴィーネ『カリガリ博士』(1920)は、精神異常者カリガリ博士と、彼の僕である夢遊病患者チェザーレが連続殺人事件を引き起こしていく、というストーリーなのだが、背景のセットが幾何学模様の建築物が斜めに建っているなど、現実的にはありえない反リアリズムの表現となっていて、狂気の世界の表現に成功している。また、この映画においては、正常者の健全な世界と異常者の狂気の世界は、境界が曖昧で、反転可能なものにすぎないという認識も示されている。このように、ドイツ表現主義の映画は、映画が、現実の世界をリアルに再現したものではなくて、非現実的な虚構の芸術的な世界を描くことができることを示した。
 動画は本編から若干カットされているが、50分の映像がラストまでアップされているので、Wikiでストーリーを確認しつつ見てほしい。また、シーンの繋ぎがほとんどすべて、アイリス・イン/アウトになっている。


 F・W・ムルナウ吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)



 F・W・ムルナウ(Friedrich Wilhelm Murnau、1888-1931)は、1922年に『吸血鬼ノスフェラトゥ』を撮っているが、この映画はホラー映画であり、ドラキュラ映画の元祖でもある。映画は、ドラキュラのようなモンスター、つまり、虚構のキャラクターを主人公としたストーリーを語ることができるようになったわけであるが、この映画では、動画で26秒からのシーンでは、壁に吸血鬼の影が映り、さらにベッドに追い詰められた女性の白いパジャマに吸血鬼の手の影が伸びていくというように、影を巧みに利用することで、吸血鬼の恐怖を巧み/芸術的に表現している。また、3分からのシーンで、吸血鬼が日光の日を浴びて消滅していくシーンも印象的である。
 この映画の全映像は、こちら。ホラー映画というジャンルは、ハリウッドのユニバーサル社が『フランケンシュタイン』(1931年)、『魔人ドラキュラ』(1931年)といったヒット作を生み出し、ジャンルを隆盛に導いていくことになる。『吸血鬼ノスフェラトゥ』は、『ノスフェラトゥ』(監督ヴェルナー・ヘルツォーク、1979)、『シャドウ・オブ・ヴァンパイア』(監督E・エリアス・マーヒッジ、2000)といった作品でリメイクされ、マックス・シュレックが演じた滑稽すれすれでかつ恐ろしい吸血鬼役を、クラウス・キンスキー、ジョン・マルコヴィッチといった名優たちが演じている。


 フリッツ・ラングメトロポリス』(1926)- OPENING



 フリッツ・ラング(Fritz Lang、1890-1976)『メトロポリス』(1926)は、ドイツ表現主義映画の到達点といえる作品であるが、この映画はまた、戦前に作られたSF映画の金字塔であり、多くのSF映画に影響を与えている。例えば、冒頭の街の描写は、『ブレード・ランナー』の冒頭の街の描写で引用されている。


 フリッツ・ラングメトロポリス』(1926)- The Workers



 このシーンでは、労働者の非人間的な労働のありようを表現しているが、労働者たちのリズミカルで機械的な動きは、現実的にはありえない表現である。1920年代のアヴァンギャルド芸術では、人間と機械を結びつける表現が多く提示されており、このシーンもまた人間=機械という表現を通じて、工場労働者における人間性の疎外といったテーマを提示している。


 フリッツ・ラングメトロポリス』(1926)- Robot Transformation



 ヒロインを誘拐し、ロボットをヒロインに変身させるシーン。主人公は、悪い女になったヒロインにショックを受ける。
 ここで紹介したのは三つの断片的なシーンにすぎないが、これらのシーンを見ただけでも、後世に与えた影響力の大きさを窺い知ることはできるだろうと思う。


 ルイス・ブニュエル『アンダルシアの犬』1/2(1928)



 ルイス・ブニュエル(Luis Bunuel、1900-1983)は、1928年、アヴァンギャルド芸術の画家サルバドール・ダリとともに、実験映画『アンダルシアの犬』を製作した。この映画は、シュールレアリスムの芸術と深い関わりのある映画であり、夢、無意識の世界を、脈絡のある一貫したストーリーを欠いた、断片的な映像の集積によって芸術的に表現している。
 冒頭、「昔々あるところに」という字幕、男が女性の眼球を剃刀で切り裂く(死んだ仔牛の目玉を用いたという)、1分8秒、「8年後」という字幕、自転車を漕ぐ男、1分45秒、部屋の中で本を開いている女性が窓の外を見ると、自転車に乗った男が倒れる、2分30秒、女性は部屋を出て男性を介抱する、2分40秒、ベッドの上に男の服を人体状に並べていく、3分20秒、部屋に男がおり手の平に蟻が這っている、4分、道に手首が落ちているのを老人が杖で突いている、5分30秒、みんなが散った後で一人だけ残っていた女性が自動車に轢かれる、5分40秒、男が女性を襲い、胸を触る、7分、追いかけっこが始まるが、男の背中に紐が括り付けられ、ピアノに繋がれている。ピアノには鹿や二人の聖職者が結わえつけられており、男はなかなか前に進むことができない。8分、男の手がドアに手が挟まれる、手には蟻が這い回っている。女性がいる側の寝室のベッドには男が寝ており、目を覚ます、9分、帽子を被った男が部屋に入ってきて、男をベッドから引き起こし、男は背広に着替える……以下、下の動画に続く。


 ルイス・ブニュエル『アンダルシアの犬』2/2(1928)



 冒頭、「16年前」の字幕、男がもう一人の男にノートと本を手渡す、本は銃に変わり、銃を撃ち、男は倒れる。1分18秒、男が倒れると、そこは森の中。多くの人々が現れ、男を運んでいく。2分30秒、女性が部屋に入ってくると、壁に張り付いた蛾を見つめる、蛾の模様の髑髏がクローズアップされ、その後、銃で撃たれたはずの男性が現れる。3分、部屋で口論する男女、女性がドアを開けると砂浜になる。3分30秒、砂浜で戯れる恋人たち、5分、「春が来て」の字幕の後で、砂浜に埋まっている恋人たち……といった映像が展開されていくが、夢がそうであるように、はっきりした脈絡や意味を解釈していけるわけではない。観客は「意味を見出せそうなのだが、はっきりとは言えない」という形で、意味と無意味の間で宙吊りにされることになるが、それこそが映像の快楽なのである。


 ジャン・コクトー『オルフェ』(1949)



 フランスのシュールレアリスムからもう一本、著名な詩人ジャン・コクトー(Jean Cocteau、1889-1963)の映画『オルフェ』(1949)を紹介しておく。
 動画の冒頭、女性が鏡を割り、割った後に空いた空間の中に入っていく。すると、割れていた鏡が元に戻っていく、6分、手袋を嵌めた男が両手を突き出しながら鏡の中に入っていく……という映像が魅力的に映されている。この場合、鏡とは映画のスクリーンの比喩であり、鏡に入っていく人々とは、映画が語る物語に魅了され、いつしか映画の世界の中に没入していく観客自身の姿にほかならない。


 以上、見てきたように、映画は、アヴァンギャルド芸術との関わりの中で、非現実的な夢、幻想、虚構の世界を描くことができるようになっていったのであり、また、これらの映画は、映画の本質が、現実ではなく、夢であるということを見せてくれたのであった。