学会



 25日、26日の二日間、日本近代文学会2008秋季大会に参加してきました。
 初めて参加したのですが、やはり大きな学会なのだな、と大きさを実感しました。メイン会場がとても大きく、最大で150〜200人前後の方が聴講していたのではないかと思うし、質疑応答の際には、著名な研究者の方たちが質問されてましたしね。


 三つのパネル発表(シンポジウム)は別々の会場での同時開催だったので、すべての発表を聴けたわけではないのですが、シンポジウムはきわめてレベルの高い発表と議論が行われていて、さすがに大きな学会だけあると感じました。
 とても刺激的な二日間だったのですが、まだ消化しきれていない部分も多いので、ここでは詳細な報告はしません。というより、レベルが高くしかも情報量も多いので、聴講した分だけでも明快に整理して紹介するのは、ぼくの手には余るんですよね。検索などで来られた方には、ほんとうにすみません。


 このエントリでは、友田義行「顔の加工/仮構―安部公房勅使河原宏『他人の顔』論」について、そのときだけパソコンの不調のせいで映像資料を見ることができなかったということもあり、若干説明を付けつつ、映画の動画を貼っておこうと思います。


 勅使河原宏『他人の顔』(1966)



 『他人の顔』は、安部公房の小説で、1964年、講談社から刊行。1966年、監督勅使河原宏、脚本安部公房、主演仲代達矢で映画化された。安部は、「人間の顔は、人間の内部と外部を繋ぐ通路のようなものだ」という観念を元に、都市化による共同体(連帯/他者コミュニケーション)の喪失とともに、顔を喪失してしまう男の物語を書いた。男は他者とのコミュニケーションの回路を確保しようとして仮面を身に付けるのだが、結果的にはどんどん自らを閉ざしていく結果へと帰趨をたどっていく。


 勅使河原宏『他人の顔』(1966)



 向こうから歩いてくる人々がみな仮面を付けている。


 勅使河原宏『他人の顔』(1966)



 女の顔の半分がケロイドとなってただれている。
 友田氏は、哲学的な議論を踏まえつつ、身体の加工や変容、モンタージュ的な文体、小説版と映画版の差異といった多岐にわたる議論をされていたのですが、やはりぼくが消化しきれていないので、ここでは動画の紹介にとどめておきます。都市化や郊外化、さらに映画や小説におけるモンタージュ的文体といったことはぼくもずっと考えている事柄なので、時間と機会があればいろいろお聞きしたいことがあったのですが、残念でした。


 もうひとつだけ。この二日間で、会場の聴衆にとって最もインパクトがあったのは、作家吉村萬壱さんの講演でしょう(親しみを込めて「さん」で呼びます)。タイトルは、「痛い小説を書く理由」というものだったのですが、あれはいったいどれくらいblogに書いていいんだろう? 「ここだけの話にしておいてください」ということも何度か仰っていたので、詳しくは書きませんが、この人はなんでまたこんなところでこんな赤裸々すぎることをしゃべってるんだろう? という感じでしたね。
 一応知的なことを話す場であるという暗黙の了解がある学会という場で、ものすごく場にそぐわないことが話されているというのと、にもかかわらず、吉村さんが大阪弁でひょうひょうとした雰囲気で話されるので、どこか牧歌的で許せてしまうという愛すべき雰囲気の持ち主であるということが相俟って、会場は、講演の間中、苦笑いと吉村さんを温かく見守るような雰囲気で包まれていました。もう完全に最後の最後で、今回の大会のおいしいところを全部持っていきましたね。


 ぼくは、吉村さんの本は、「クチュクチュバーン」と「人間離れ」という宇宙人が人類を捕食していく初期作品しか読んだことがなかったのですが、芥川賞受賞作「ハリガネムシ」(初出「文學界」2003年5月号、文春文庫)は実体験に基づく痛い恋愛小説ということで個人的に興味深く読めそうに思うので、近いうちに読んでみます。
 ともあれ、二日間、発表も、知ってる方たちとわいわいやってるのも、とても楽しかったです。


 また、運営などに関わった方たちは、お疲れさまでした。
 ニアミスで結局お話しできなかった方たち(とても多かったんですけど……)とは、またいずれじっくりお話しできる機会もあるでしょうし、次の機会を楽しみにしています。