動画で学ぶ映画史(7)―ハリウッド映画とヨーロッパ



 ハリウッドは、1920年代以降、世界中から才能ある映画関係者たちをスカウトし集めることによって、193-40年代の全盛期を導いた。このときドイツ表現主義映画など、ヨーロッパ系の表現技法がハリウッドに流入・普及し、ハリウッド映画を豊かなものにしていった。


 F.W. ムルナウ『最後の人』Dreaming Scene(The last man、1924)



 F・W・ムルナウ(Friedrich Wilhelm Murnau、1888-1931)は、ドイツ表現主義の映画監督であり、吸血鬼映画『ノスフェラトゥ』(1922)といった表現主義的な技法を駆使した作品を撮っていたが、1927年、ハリウッドに招かれて『サンライズ』(Sunrise、1927)を撮り、アカデミー賞芸術作品賞を受賞した。ムルナウは、『ノスフェラトゥ』がハリウッドの怪奇映画に影響を与え、また、ドイツ時代、ジョン・フォードムルナウの下に映画を学びに来たというエピソードもある。
 動画は、ドイツ時代の「最後の人」(The last man、1924)。1分30秒からのシーンでは、眠りこけた老人が夢の中で過去の人生の思い出を思い出していくシーンを、ディゾルブや画面分割などを利用し、巧みかつ芸術的に表現している。同様の手法は、『サンライズ』(田舎の素朴な夫婦が悪女に翻弄されつつ、都会で楽しい一夜を過ごし、仲直りするというストーリー)では、映画の冒頭の汽車のシーン(1分40秒〜)や、純朴な夫婦の夫が悪い女に誘惑されて都会を幻視するシーン(3分30秒〜)で使用されている。


 また、都会のシーン(3分〜)はセットで撮影され、かつさまざまな技法が用いられており、嵐のシーン(1分40秒〜)も雷の表現などすごい。黒豚がパーティー会場で逃げ回りブランデーを飲んで酔っぱらって倒れるシーン(1秒〜)の影の使い方もいい。
 こうした芸術性豊かな表現は、基本的に明快でリアリズムに基づく話法を用いるハリウッド映画に、表現の幅を広げるものであった。


 エルンスト・ルビッチ『生活の設計』(Design for Living、1933)



 エルンスト・ルビッチ(Ernst Lubitsch、1892-1947)は、ドイツ出身の映画監督で、1924年、ハリウッドに招かれて渡米。『結婚哲学』 (1924) 、『極楽特急』(1932)、『ニノチカ』(1939年)『街角」(1940)など、男女のやりとりがオシャレで洗練され、ウィットに富んでおり、またストーリー展開も巧みなラブ・コメディ(=ソフィスティケイテッド・コメディ)を撮った。たとえば、『街角』は、一緒の職場で働く男女がいつも喧嘩ばかりしているのだけど、文通相手でもあり、文通ではお互いに恋い慕っている……という現代でも通用しそうなツンデレラブコメであり、現に現代のハリウッドにおいて、『ユー・ガット・メール』(1998)というタイトルでリメイクされた。
 動画を見ると、二人の青年が眠りこけている汽車の客室に女性が入ってきて絵を描きはじめ、次は自分が眠りこけてしまったところで青年たちが目を覚まし……という若い男女の出会いが、実に洒脱に描かれており、楽しい。都会的なユーモアに溢れ、きわめて洗練されたルビッチの映画は、日本映画を代表する映画監督である小津安二郎にも影響を与えている。


 フリッツ・ラング『M』(1931)



 1930年代に入ると、ナチスドイツはユダヤ人を迫害し、前衛的な芸術家もかなり弾圧したので、多数の映画監督がハリウッドに亡命した。犯罪映画の先駆『ドクトル・マブゼ』(1922)、SF映画の先駆 『メトロポリス』(1927)を撮ったフリッツ・ラング(Fritz Lang, 1890-1976)ユダヤ人であり、1934年、脚本家で妻のテア・フォン・ハルボウと離婚し、ハリウッドに亡命した。
 動画は、ドイツ時代末期の犯罪映画『M』(1931)、冒頭の場面。以下、先生の分析をそのまま紹介したいのだが、この冒頭のシーンには、映画は換喩的な表現を得意とするということが特徴的に表れている。換喩とは、例えば、赤ずきんちゃんは、女の子がいつも赤い頭巾を身につけているから、赤ずきんちゃんと呼ばれるといったように、隣接性によってあるものを別のもので喩えるレトリックである。


 動画では、3分40秒、女の子がボール遊びをしており、4分、電信柱の誘拐犯が頻出していることを告げるチラシにぶつけているが、そこに男の黒い影が現れて、女の子に声をかける。5分30秒、男が口笛を吹きながら、女の子に風船を買ってあげる。7分10秒、警官が母親の元に来たことで、母親は女の子がいなくなっていることに気づく。
 そして、7分20秒から、階段→洗濯物が干してある部屋→皿が用意された食卓と椅子→空き地にボールが転がってくる→電信柱に風船が引っかかっている、といったショットが続くのだが、これらは空ショット(人物不在の場所のショット)であり、女の子が誘拐されたことを示していると同時に、ボールや風船は、誘拐された女の子を示している。


 ジェームズ・ホエールフランケンシュタイン』(Frankenstein、1931)



 こちらの動画は、隠喩的なレトリックが用いられているシーン。怪物は、女の子に湖に花を投げ入れるという遊びを教えてもらうのだが、怪物は女の子を湖に放り込んでしまう。これは「花」と「女の子」が、「かわいい/美しい」という点において似ているということから起こった出来事であり、こうした相似性に基づく認識というのは、清楚な美女を白百合で喩えるといった類の隠喩的なレトリックである。ただし、このシーンはわかりやすいのだけど、弾圧される労働者を殺される牛で喩えるといったことを、前後の繋がりを明示することなく表現された場合には、隠喩的な表現は相当にアヴァンギャルドなものになってしまう。
 『フランケンシュタイン』(Frankenstein、1931、監督ジェームズ・ホエール、主演ボリス・カーロフ)は、1931年、ユニバーサル社製作の『魔人ドラキュラ』(Dracula)がヒットを受けて同社で製作されたホラー映画であり、ユニバーサル社が製作したホラー映画は、一般に「ユニバーサル・ホラー」と呼ばれている。もともとヨーロッパのロマン派の文学の中で作られたモンスターを原作としていることもあり、ユニバーサル・ホラーは、ヨーロッパの影響を強く受けたものであった。


 さて、『M』のラストは、犯罪が暴露された犯人が怒り狂った群衆に追われるというシーンが展開されており、許しがたい殺人者であるにもかかわらず、観客が犯人に同情するような作りになっており、群衆に追われる犯人のシーンは、ナチスファシズムの時代に迫害されるユダヤ人の姿が映し出されているようにもとれる。
 一方で、同年の『フランケンシュタイン』もまた、上の動画の8分からは群衆に怪物が追われ、風車に追い込まれて火をつけられ、最後を迎えるというシーンになっており、群衆の狂気(=ファシズム)の時代の到来を、映像的に表象するものとなっている。


 チャップリン『独裁者』(The Great Dictator、1940)



 ハリウッドは、戦時中には、敵国であるドイツのファシズムなどを批判する数多くのプロパガンダ映画を送り出すことになる。チャップリン『独裁者』(The Great Dictator、1940)は、チャップリンヒトラーの物真似をしたパロディーであり、とりわけ演説シーンは有名である。本物のヒトラーが演説している映像と比べると、ヒトラーよりヒトラーらしいことがわかる。ちなみに、チャップリンはロンドン出身であり、アメリカ生まれではない。


 マイケル・カーティスカサブランカ』(Casablanca、1942)



 チャップリン『独裁者』(The Great Dictator、1940)エルンスト・ルビッチ『生きるべきか死ぬべきか』(To Be or Not to Be、1942)フリッツ・ラング『死刑執行人もまた死す 』(Hangmen also die、1943) など、ヨーロッパからハリウッド入りした映画監督たちの多くは、戦時中、プロパガンダ映画を手がけた。
 『カサブランカ』(Casablanca、1942)は、ハンフリー・ボガード演じる主人公が、イングリッド・バーグマン演じるヒロインに、動画では2分からのシーン、3分23秒のところで言う「Here is looking at you, kids」という台詞を訳した「君の瞳に乾杯」という言葉が、日本ではやたらと人口に膾炙した映画であるが、この映画もまたもまたプロパガンダ映画の一つであり、ドイツ支配下にあったフランス領モロッコの都市カサブランカを舞台に、アメリカ人男性がかつて恋人だった女性に再会するが、彼女は夫がナチスに追われているトラブルを抱えており、しかし主人公は彼女に力を貸し……といったストーリーとなっている。


 監督のマイケル・カーティス(Michael Curtiz、1888-1962)は、ハンガリーブダペスト出身のユダヤ人映画監督で、1927年、ハリウッド入り。戦時中には、『カンサス騎兵隊』 (1940)、『壮烈第七騎兵隊』(1941) といった南北戦争時代の愛国的な軍人を描く、エロール・フリン主演の愛国映画を何本も制作しヒットさせた。
 ただし、これらの映画の視点は、北軍奴隷解放賛成の側であり、グリフィス『國民の創世』とは異なる。さらに、『壮烈第七騎兵隊』では、ネイティブ・アメリカンが単純に悪としてではなく描かれているようであり、この辺りの政治的なニュアンスを読み解くのは一筋縄では行かないだろう。


 エリア・カザン『波止場』(On the Waterfront、1954)



 エリア・カザン(Elia Kazan、1909-2003)は、イスタンブル生まれのギリシャアメリカ人映画監督。動画は、『波止場』(On the Waterfront、1954)のワンシーンであるが、この映画のカメラマンは、ロシア・アヴァンギャルドのカメラマン、ボリス・カウフマン(Boris Kaufman、1897-1980)とジガ・ヴェルトフ(Dziga Vertov、1896-1954)の兄弟であった。
 エリア・カザンは、戦後にハリウッドでも吹き荒れた赤狩りにおいて重要な役割を果たした人物として知られている。1947年、共産主義者として何人かの映画関係者が召還されハリウッドから追放されたが、このときカザンは、政府に情報を提供したと言われている。


 赤狩りについては、エリア・カザンのやったこと1947年−ハリウッド・テン-などを参照してほしいが、このとき追放された者以外も、多くの映画関係者がハリウッドから離れ(チャップリンもまた事実上追放された)、ハリウッドは50年代、衰退に向かっていくことになったのであった。


 ウィリアム・ワイラーローマの休日』(Roman Holiday、1953)



 最後にエントリの内容に絡めて、楽しい映画の楽しいシーンを紹介しておく。
 ウィリアム・ワイラー(William Wyler、1902-1981)は、父はユダヤ系スイス人、母はユダヤ系ドイツ人のフランス(アルザス)人で、1920年、18才でハリウッドに渡り、ユニバーサル社の雑用係からスタートし、1925年には映画監督に昇進して映画制作を開始。「名カメラマンのグレッグ・トーランドが開発したパン・フォーカスという新しいカメラ技術も積極的に取り入れ、それまで主流だった短いカットを編集でつなぐモンタージュの手法ではなく、ワン・シークエンスで表現した重厚な演出を成功させたことで一般観客だけではなく、国内外の批評家からも絶大な支持があった」(Wiki)。『國民の創世』が作られた1925年から10年の間にモンタージュの手法が普及し、そしてそこから脱皮する時期に来ていたことがわかる。


 『ローマの休日』(Roman Holiday、1953)は、ハリウッドの赤狩りでハリウッドから追放されたはずだった脚本家ダルトン・トランボ(Dalton Trumbo、1905-1979)が脚本を書いた作品で、彼は、追放中も変名を使い分けて脚本を書きまくっていたのだという。しかもトランボは、『ローマの休日』でアカデミー賞原案賞を獲得してしまったのだそうだ。
 ……ていうか、テラベスパw 楽しそうだ。