拡散する主体のドライヴ―岡崎乾二郎のくるり論
くるり「ばらの花」PV(2001)
「ユリイカ」2003年6月号「特集:Jポップの詩学」所収の岡崎乾二郎インタビュー「音はニホンゴを断ちきれるか」より、くるり論を紹介。岡崎は、「学生たちと接していて感じる今の気分がよく出ている」曲の例として、今やくるりの代表曲の一つとなっている、7thシングル「ばらの花」(2001)を挙げる。
たとえば「ばらの花」という曲があって、ジンジャーエールを飲みかけのまま、宙づり状態でぼんやりした頭の主人公が旅に出て、女の子に恋の告白をしようとする、しかし実際には旅にも行かず告白もしない。打ち込みリズムでドライブをかけているから、車で運転しているときに聴いたりするとピッタリなのですが、しかし、実際にはどこにも行かない。バスには乗りおくれるし、近づいたと思っても遠ざかっていく。暗がりの中で君が見ていると感じたけれど、実は君も僕もいない。すべては飲みかけのジンジャーエールの宙ぶらりんな状態にもどる、つまり頭が気の抜けたソーダと化している(笑)という情けない歌ですが(中略)
なるほど、そういう歌だったんですね。たしかに今時の若者っぽい*1。
こういう意識朦朧の状態の中で、「さあ出かけよう、君と僕」と、目的が宙づりのままドライブがかけられ言葉が重ねられていくと、他人の言葉と自分の言葉の区別もなく、すべてがひとつの運動の中に連続して感じられてきてしまう。(中略)
自分が何を探しているかもわからないので探しにいく。何を感じていたのかわからない。自分が帰属する場所から遊離してしまった上に、そもそも感覚されている対象が曖昧で、感覚の統合がばらばらになってしまっている主体がひたすら彷徨いつづける。(中略)
「ワールズエンド・スーパーノヴァ」では「夜を越えてどこまでも行ける」と気張っているけれど「僕らいつも考えては忘れてる」。「ワンダーフォーゲル」では「手のひらから大事なものがこぼれ落ち」てしまっているし、「ハローもグッバイもサンキューも言わなくなって」、みんなすれちがってばらばらになってもまだ歩きつづけている。
言われてみれば、「ハイウェイ」(2003、映画「ジョゼと虎と魚たち」主題歌)でも旅に出る理由が百個ぐらいあるんだと言いながら、結局旅に出ることはなくて、最終的には旅に出る理由なんて一つもないということになった挙句に、すべて後回しにしちゃおうとか言ってるし、ことごとく不発で不完全燃焼なぐずぐず感が漂ってるんですよね*2。だがそれがいい、と。
そして、音楽史・ロック史的には、次のように位置づけられるということのようです。
くるりは、誰もがいうように、はっぴいえんどとか、ムーンライダーズの流れを感じるけれど、日本語の中から主体を希薄化させていくことで、日本語をロックと融合させていくという主題にピッタリ焦点が合ってる感じがするんですね。
なるほど。ぼくはくるりが登場してきた頃すでに同時代的な音楽との接点を失っていく年齢になりつつあったので、くるりの重要性っていまいちちゃんと認識できなくて、なんで特権的なバンドとして語られてるんだろう?って腑に落ちない気持ちがあったんですけど*3、今更ながらやっと納得しました。
これ以外にも、「世界の中にいながらその実感がない」が「自分の身体的な反応」を通じて「自分がいることがやっとたしかめられる」とか、「岸田繁さんという人はきっとインテリで、大学で現代思想の授業にでたりして、コジューヴがどうしたフクヤマがどうしたと聞かされたりしてきた人だと、僕は勝手に推測しているんですけど」……など、興味深い洞察が重ねられているので、興味のある方は現物に当たってみてください。
「ワールズエンド・スーパーノヴァ」PV(2002)
「ハイウェイ」PV(2003)
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