東浩紀×北田暁大『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム』



東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)



 映画における地方の郊外化と若者でも書いたことなのだけれども、地方の郊外化について考えている。
 簡単にまとめておくと、地方都市の町並みは日本中で均質化が進んでおり、地方に全国チェーンのスーパーやコンビニが進出することによって商店街はシャッター街化し、地域のコミュニティーは破壊される。そこに住む住民たちは匿名化しており、隣にどんな人間が住んでいるのかわからない不安を感じていると同時に、孤立していることによる孤独感を抱えている。すべてが安価に入手できるのだけど、町そのものには何もなく、文化的には荒廃しており、人との出会いの場も限られている。
 「郊外」を構成するのは、ファミレス、コンビニ、マクドミスドドトールユニクロ、青山、TSUTAYAブックオフシネコン、カラオケ、魚民、白木屋、吉野屋、ドンキホーテ、マツキヨ、ヤマダ電機、電激倉庫、OKIDOKI、郊外型大型店舗、ショッピングモールなどなど。何でも揃っている、安く手に入る、店員とコミュニケーションする必要がない、多くの人が利用している(匿名性が保たれる)といった要素が、現代に生きる人々には利用しやすく、こちらに流れるのだろう……。


 それで、いまさらながら、気鋭の評論家による対談集を読んでみたのだけど(出版は2007年1月)、東京のオシャレな町と思われている渋谷や六本木も地方から若者が大量に流入してくるものだから、彼らのために郊外型の店舗が必要となり、どんどん郊外化しているといった話や、その他諸々興味深い話が交わされており、とてもおもしろかった。この本で読書会したいな。
 しかし、とにかく、ぼくとしては、「郊外での生についてどんなスタンスを取りうるのか?」という点に最も関心があり、その点についての評価が刺激的だったので、このblogでは、そのあたりの記述について引用しておきたい。



 そうですね……。たとえば、西荻窪は古本屋が多いので有名なんですが、そういう店に行くと、思想書とか文芸書とかサブカル本とかえらく豊富なんですね。新刊本屋でも普通に僕の本が置いてありますし。しかし、本屋に行って自分の読みたい本に出会うというのは、嘘みたいな気がするんですよ。そんな世界は僕のために作られた虚構空間で、本当の現実は、ベストセラーしか置いてないTSUTAYAにある。そういう気持ちがしてしまう。そもそも、僕たちが生きるポストモダンゼロ年代的な「ファスト風土」はそういうものでしょう?
北田 でも、本当にそれしかないと、けっこうつらいですけれどね。以前柏に住んでいたとき、なんと言うのかな、人文的な読書空間がほとんど物理的に用意されてなくって、苦労しました。新星堂が頑張ってるんだけどね、やっぱりいざというときは御茶ノ水に行かなきゃならない。
 それはむろんつらいわけです。でも、そのつらさのなかで生きていく感じが、緊張感を要求する(笑)。


   (『東京から考える』、P33-34)






 (中略)その議論(ニートをめぐる議論−引用者注)全体を支えているものとして、現代日本の社会環境や都市空間があると言えないですか。つまり、コンビニやコミュニケーションを矮小化しても、それなりに最低限「快適」な―僕の言葉で言えば「動物的」な―社会生活が、しかもけっこう安価に提供される環境。(中略)
 ちなみに僕は、身体感覚としてはブックオフTSUTAYAのほうが好きなんですけどね。「適当に生きていてもいいんだ」という解放感がある。他方、西荻窪の古本屋だと自分の本とか見つけちゃって、もう勘弁してくれと(笑)。
北田 羨ましいけどなあ……。やっぱり郊外的なリアリティで生きていると、不安になりますよ。「これでいいんだろうか?」って。
 人間はこうやって確実に動物になっていくんだなあ、という確固たる地盤というか、安心感を感じますけどね(笑)。


   (『東京から考える』、P55-56)






北田 なるほど。いくつか郊外論を読んでいると、微妙に違和を感じることがあります。みんな郊外的な均質空間に息苦しさを感じているはずだ、ということを前提として議論が進められていることがある。でも、郊外育ちの団塊ジュニアにとっては、いわば原風景なわけですよ、広告郊外的な空間が。だからかれらにとっては、都心の風景が郊外的なものに侵食されつつあると言われても、「それが何か?」という感じなのではないか。


   (『東京から考える』、P206)



 東は郊外的な均質空間の「動物化」を肯定する立場を貫徹し、北田の方はもう少し「人間的」で、郊外化の流れを客観的に考えようとしながらも東ほど割り切れないという感じで、正直だと思う。(東の感覚には、ヴァーチャルとの絡みでもう一つ屈折したものがあるのだけど、ここでは触れない。)
 ぼく自身はずっと地方都市の郊外的な環境の中に住んできたし、郊外論者が言うように、「郊外的な均質空間に息苦しさを感じて」生きてきたと思う。郊外的な地方都市は、とにかく空気が薄いのだ。空気が薄くて、呼吸ができない感じ。これはたしかにある。地元は一応県庁所在地であるにもかかわらず、「人文的な読書空間」と言える書店などいまだに一つもないし、仙台に来てやっとほっと一息つけた思いを感じている。


 けれども、郊外的な空間こそリアルなのだ、という東の感覚もわかる。先週、泉区に運転免許の更新に行った際、ショッピングモールを歩いてきたのだけれど、ああ、空気が薄い……郊外だ……こういう場所にいたら、おれなんかまったく孤独で、誰とも一言も話さずに生きて死んでいくのだろうな、という気分になった。地方の市立図書館の本棚というも絶望的な気分になる。こんなに本が並んでいるのに、読んだ本や読みたいと思わない本ばかりで、読みたい本が一冊もない……。
 しかし、それこそがリアルなのだ。郊外的な空間は退屈で孤独で、とても耐えられないと思うのだけれど、そういう孤独と退屈、倦怠と荒廃こそが自分の根底にあるものであって、田舎の素朴な人々たちによる人情味豊かなコミュニティーとか、都会の喫茶店を舞台としたマスターや常連たちで形成されるサークルとか、神保町の古本屋に集う本好きたちのネットワークとか、小説の中ではさんざん幻想を与えられてきたわけだけど、そんなものは「ない」。少なくともぼくの人生には無縁であって、孤独と退屈はもうずっと続くものなのだ……。


 そのことがつらいと感じるわけではない。おそらく今後もずっと郊外的な感覚というのは付きまとう。たとえば、仕事で地方に飛ばされれば、そこでは郊外的な空間での孤独と退屈が待っている。つらいのは自覚できないからつらいのであって、自覚さえできれば、あとは覚悟と心構えの問題なのだと思う。
 もう一つは、ちゃぶ台をひっくり返すようだけれど、おそらくぼくも根っからの郊外っ子なんだよな……。おそらくぼくの「教養」の80パーセントは、ブックオフTSUTAYAでできている。もちろん、ファミレスやコンビニもよく利用する。郊外的な店舗があれば、とにかく生きていけてはしまうんですよね、ぼくも……。