映画『おくりびと』における喪の作業



おくりびと [DVD]

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 第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞した話題作、映画『おくりびと』(監督滝田洋二郎、2008年)をDVDで観たのだけれど、結論から言えば、ぼくはこの映画については批判的だ。この映画はもちろん喪についての映画であり、納棺師のすばらしい仕事が、遺族の喪の作業を完了させる、というのがこの映画の基本線だ。遺族は大事な人を失った悲しみを乗り越え、喪失を受け入れることができるか、または受け入れるきっかけを得ることができる。
 しかし、この映画にはいくつか納得できない点がある。 第一に、そう簡単に喪の作業を終えていいのかということがある。「喪とメランコリー」(フロイド)で言えばメランコリーの過程が足りないのではないか。遺族たちには、葬儀の場で喪の作業を終えるのではなくて、もっともっと死者の喪失の痛みを悲しみ、嘆く過程が必要なのではないか。


 第二に、生きているうちは遺族と葛藤関係にあった死者が、死んだことによって遺族に所有されてしまっているのではないか。映画がそれを不問にしてるのは、「個」を、家族に回収する家族イデオロギーを根底に据えているからではないのか。(主人公を捨てられた子どもとしているにもかかわらず/からこそ?)
 第三に、葬儀が美化されているのではないか。伊丹十三「お葬式」では、死者そっちのけで繰り広げられる、遺族たちの相続争いだの不倫だのといった世俗的きわまる姿が描かれていたが、しかし現実にはそういうものなわけだし、そういう描き方の方が健康的なのではないか? 美化された葬儀の表象は、結局のところ「日本」や「家族」といったイデオロギーを背景としているのではないか。


 この映画では、「食べること」の主題も書き込まれている。「食べること」は、「喪とメランコリー」の研究においても重視されてきた事柄であり、ニコラ・アブラハム/マリア・トロークによれば、喪の作業は、失われた愛の対象を取り込み(introjection)によって、愛の対象を消しつつ同一化することとして定義づけられる一方で、メランコリーは、喪を行わず愛の対象の喪失を否定することで、死者が体内に住みつき体内化(incorporation)、クリプト(地下墓所)化した状態である。
 主人公の大悟は、主人公は納棺師になりたての頃、刺身を夕食に出されて見ただけで吐いてしまう。死体(モノとしての人間)を取り扱う納棺師になった大悟は、当初人間もまた動物(肉)であることを受け入れられずにいたわけだが、やがて仕事に慣れ、社長と肉を食いながら「でも美味しいんですよね」という会話を交わす頃には、死を、そしてモノとしての人間を受け入れている。


 肉と対比的なものとして出てきているのは、自分を捨てた父との思い出の中で、つながりの象徴として出てくる石だ。肉のように腐ることのない石は永遠性のイメージとして出てきており、墓標のイメージにも重なっていく。
 大悟にとって父は自分を捨てた存在として、石のイメージにおいて体内化(incorporation)/クリプト(地下墓所)化しており、大悟の中で葛藤(=メランコリー)を生じさせていたのだが、肉を食べることにおいて取り込み(introjection)の準備を行いつつ、結末において父の死を受け入れ、自分の中に取り込んだと言えるだろうか。愛の対象を喪の作業によって消す/他者との葛藤関係を拭い去るというこの映画の性格は、ここでも明らかなように思う。


 この映画の中で唯一手ばなしで称えることができるのは、広末のいつもと変わらぬ他者っぷりだ。「わかりあう」情緒的な共同体の中で、ひとりあっけらかんと気まぐれな異者であり続ける広末はまったくもってすばらしい。広末演じる大悟の妻美香が、大悟を責めて彼の下を去っていくのも理解して戻ってくるのも、広末が演じるとただの気まぐれにしか見えないのだが、広末の了解不能な他者っぷりは、日本的な「情緒」の中にどこまでも埋没していきかねなかったこの映画を、ある面において救っていると思う。