思いの受け止め方―小津安二郎『東京物語』



東京物語 [DVD] COS-024

東京物語 [DVD] COS-024



 小津安二郎東京物語』(1953年)を、久しぶりに見返した。
 小津は世界的に評価が高い映画監督で、『東京物語』は名監督小津の名作とされる作品であるわけだけど、実際のところおもしろいかと訊かれると、上映時間が135分もあり、しかも小津はゆったりした撮り方をする監督で、内容的にも田舎に住む老夫婦が東京で人間関係や都市の喧噪に疲れてしまうという映画なので、十年前に見たときは見ながらすっかり疲れてしまったし、それは実は今回も変わらなかった。しかしながら、多少人生経験やら作品の受け手としての経験やらを積んだこともあり、多少はこの映画のコトがわかるようになった気もした。
 このエントリでは、YOU TUBEにアップされている終盤の場面の動画を紹介しながら、ぼくなりの読みを書いていきたいと思う。


 『東京物語』のストーリーは、尾道に住む笠智衆(平山周吉)と東山千榮子(平山とみ)の老夫婦が、東京に住む子どもたちの下に訪ねてくる、という、本当にそれだけの話である。しかし、子どもたちは都会で多忙な生活を送っているために、親である老夫婦に冷たく、「ゆっくりしていってよ」とか「もう帰るの」と口では言うのだけれど、日常生活が忙しく、多忙モードのままで言うものだから、「ゆっくりしていってよ」という言葉が「忙しくて相手にできないから、早く帰ってよ」と聞こえる。言葉の内容と態度から発せられるメッセージが違うのだ。
 唯一、老夫婦を本当の意味で受け入れてもてなしてくれたのは、戦争で戦死した次男の嫁である原節子(平山紀子)である。原節子は、身体的なリズムが老夫婦と同調しており、老夫婦は、誰もが忙しげで、激しい喧噪が老いた身体を鞭打つ東京で、唯一彼女と接しているときだけが、ほっと安堵することができる。
 原節子が、東京を訪れた老夫婦を、初めて訪れて久しぶりに再会するシーンがこちら。


 原節子と老夫婦との再会@『東京物語

 「忙しいんじゃないか?」と訊くところに、老夫婦の「自分たちはお荷物で迷惑をかけてるんじゃないか?」という遠慮の気持ちが出ている。そう感じさせない気遣いが歓待する側には必要なのだけど、結局老夫婦は肩身の狭い思いを払拭できない。
 長女役(金子志げ)の杉村春子(名女優!)が早口で、「さ、下に行きましょう」とか急かす上に、「太った」とか「子どものころ学校に来られると恥ずかしかった」とか失礼なコトを言うのに対して、原節子は会えたことが本当に嬉しそうで、着物をたたむ東山千榮子に「お義母さま、致しましょう」と親切にしようとする。まあ、実の親子だからこそ遠慮なくできる、というのもあるだろうけれど、「親身であることを前提にした乱暴さ」はときに疲れるものだし、旅で疲れてるんだからもうちょっと気を遣おうよと思う。


 老夫婦は、子どもたちが冷たいことに寂しい思いを抱きつつ、そのことを表に出したりはしない。旧友と酒を飲みに行った笠智衆は、子どもへの不満をぶちまける旧友に対して、「決して満足しとらんが」と不満があることを認めつつ、「こりゃ世の中の親っちうもんの欲じゃ。欲張ったら切がない。こら諦めにゃならんとそうわしァおもうたんじゃ」、「あれもあんな奴じゃなかったんじゃが……仕様がないわい。やっぱり沼田さん、東京はのう、人が多すぎるんじゃ」と子どもたちの変化に理解を示す。ま、仕方ないか、といった感じだろうか。
 こういう心境になれるのは、長く人生を生きてきたので、他人の立場や境遇に思いを至らせることができるし、尊重することもできる、という人生経験のなせる業というコトだと思うのだけど、同時にこれは、弱者が諦念によって社会の納得できない事柄を受け入れていく、弱者の適応能力の力という面もあると思う。嫌なことやつらいことがあっても、仕方がないと受け入れて、「そうじゃのー、しかし、そういうこともあるんじゃないか」などど言いつつ、諦念によってどこまでも事態を受け入れていく。いや、はぐらかすというのは、受け入れているというよりも、受け入れないための抵抗とも言えるかもしれない。この辺りのニュアンスはとても微妙なところだと思うのだけど、とにかくそれが人生の知恵であることは間違いなくて、『東京物語』の魅力の一半は、笠智衆ののらりくらりとしたはぐらかしによる対処にある。


 東京で眠れない夜をすごした老夫婦はすっかり疲れてしまう@『東京物語

 「お前はぐーぐー眠ってたよ」と妻をからかう笠智衆がかわいい。この映画では、老夫婦がふたりで寄り添っている姿が描かれるが、都会の喧噪の中で心細く頼りなげである。そんな中でふたり寄り添っている老夫婦の姿は、なんともかわいらしく感じられる。


 末娘が次男の嫁である原節子に兄や姉への憤りを訴える@『東京物語

 東京から帰った直後に、東山千榮子は危篤となり急逝してしまう。そのために今度は子どもたちが、忙しいところを尾道に向かわなければならなくなる。で、葬儀後、長女は例の調子で、「そう言っちゃ悪いけど、どっちかって言えば、お父さん先のほうがよかったわねえ」とか、「お母さんの夏帯あったわね? ネズミのさ」「あれあたし 形見にほしいの」とか勝手なことを言った挙げ句に、葬儀の晩の列車で東京に帰ってしまう。
 このときも笠智衆は「みんな忙しいのに遠いいとこをわざわざ来てくれて、すまなんだ。ありがとう」と感謝の意を示して、子どもたちの冷たい態度を受け流してみせるわけだけど、末娘の京子は怒って、義姉の原節子に思いをぶつける。で、彼女の怒りの思いをぶつけられた原節子は、笠智衆と同様に、「でも、そういうものなのよ」と、義兄姉たちを擁護して、末娘をなだめるわけなのだけど、この辺りの台詞を、『東京物語』@ヴィヴィアンありきから借りて挙げておく。



 京子「お母さんが亡くなるとすぐお形見ほしいなんて、あたしお母さんの気持ち考えたら、とても悲しくなったわ。
 他人同士でももっとあたたかいわ。親子ってそんなもんじゃないと思う」


 紀子「だけどねえ京子さん。あたしもあなたぐらいの時にはそう思ってたのよ。でも子供って大きくなると、だんだん親から離れていくもんじゃないかしら。
 お姉さまぐらいになると、もうお父さまお母さまとは別のお姉さまだけの生活ってものがあるのよ。
 お姉さまだって決して悪気であんなことなすったんじゃないと思うの。誰だってみんな自分の生活がいちばん大事になってくるのよ」


 京子「そうかしらん。でもあたしそんな風になりたくない。それじゃあ親子なんてずいぶんつまらない」


 紀子「そうねえ。でも、みんなそうなってくんじゃないかしら。だんだんそうなるのよ」


 京子「じゃお姉さんも?」


 紀子「ええ、なりたかないけど、やっぱりそうなってくわよ」



 原節子(=紀子)は、決して家族に冷たくならないタイプだと思うのだけど、ここではそう言わなければ収まらないからそう言っている。原節子の人生観は笠智衆と似ているわけだけど、これは優しい性格で、優しさは弱さでもあるので、そうやって自分の中で納得というか合理化させているのだと思う。


 原節子が義父の笠智衆に思いを吐き出す@『東京物語



 目下の京子には、世知辛い世の中を受け入れていく人生観というか方法を話していた原節子なのだけど、実際のところは口で言っているほど何から何まで割り切れているわけではなくて、今度は、彼女が自分の思いを笠智衆にぶつける。すべてを諦めて受け入れるには、まだまだ若いのだw この辺りの台詞も、『東京物語』@ヴィヴィアンありきから借りて引用しておこう。(動画が消されたらこのエントリ、悲しいことになるしw)



 周吉「お母さんも喜んどったよ。東京であんたんとこへ泊めてもろうて、いろいろ親切にしてもろうて」


 紀子「いいえ、なんにもおかまいできませんで」


 周吉「いや、お母さん言うとったよ。あの晩がいちばんうれしかったいうて。わたしからもお礼を言うよ。ありがと」


 紀子「いいえ」


 周吉「お母さんも心配しとったけえど。あんたのこれからのことなんじゃがな。やっぱりこのままじゃいけんよ。なんにも気兼ねはないけえ。ええとこがあったら、いつでもお嫁にいっておくれ。
 もう昌二のこたァ忘れてもろうてええんじゃ。いつまでもあんたにそのままでおられると、かえってこっちが心苦しうなる。困るんじゃ」


 紀子「いいえ そんなことありません」


 周吉「いやそうじゃよ。あんたみたいなええ人はない言うて、お母さんもほめとったよ」


 紀子「お母さま、わたくしを買いかぶってらしったんですわ」


 周吉「買いかぶっとりゃァしェんよ」


 紀子「いいえ、わたくし、そんなおっしゃるほどのいい人間じゃありません。お父さまにまでそんな風に思っていただいてたら。わたくしのほうこそかえって心苦しくって……」


 周吉「いやァ、そんなこたァない」


 紀子「いいえ、そうなんです。わたくしずるいんです。お父さまやお母さまが思ってらっしゃるほど、そういつもいつも昌二さんのことばかり考えてるわけじゃありません」


 周吉「ええんじゃよ 忘れてくれて」


 紀子「でも、このごろ思い出さない日さえあるんです。忘れてる日が多いんです。わたくし、いつまでもこのままじゃいられないような気もするんです。このままこうして一人でいたら、いったいどうなるんだろうなんて。
 夜中にふと考えたりすることがあるんです。一日一日が何事もなく過ぎてゆくのがとっても寂しいんです。どこか心の隅で何かを待ってるんです。ずるいんです」


 周吉「いやァ、ずるうはない」


 紀子「いいえ、ずるいんです。そういうこと、お母さまには申し上げられなかったんです」


 周吉「ええんじゃよ、それで。やっぱりあんはええ人じゃよ。正直で」


 紀子「とんでもない」


 周吉「(懐中時計を持ってきて)こりゃァ、お母さんの時計じゃけえどなァ。今じゃこんなものもはやるまいが。お母さんがちょどあんたぐらいの時から持っとったんじゃ。形見にもろうてやっておくれ」
懐中時計を持ってくる


 紀子「でも、そんな」


 周吉「ええんじゃよ、もろうといておくれ。いやァ、あんたに使うてもらやァ、お母さんもきっとよろこぶ。なあ、もろうてやっておくれ」


 紀子「(嗚咽しながら)すいません……」


 周吉「いやァ、お父さん、ほんとにあんたが気兼ねのう。さきざき幸せになってくれることを祈っとるよ。ほんとじゃよ。
 妙なもんじゃ。自分が育てた子供より、いわば他人のあんたのほうがよっぽどわしらにようしてくれた。いやァ、ありがと」



 冷淡になった子どもたちのコトは、寂しくはあるけれど、言ってみればテキトーに受け流していれば、彼らは彼らで勝手に生きていくから楽なのだけど、世間の垢に染まらずにまっすぐに育って優しい気持ちを保っていて、それゆえにつらい思いを抱えているような、自分と似たタイプの人生の後輩に思いをぶつけられると、どう思いを受け止めてやればいいものやら困ってしまう、というのがこの場面w
 原節子が思いをぶつけられた京子は、まだまだ元気な子だから、原節子のうまく言えてるとはいえない言葉でも、「そういうものかしら」となんとなく引き下がってくれたのだけど、原節子は、非常に重い思いを笠智衆にぶつけているw
 で、原節子が京子にそうしたように、笠智衆原節子の思いを正面からは受け止めずに、淡々としたスタンスやリズムだったり飄々とした口調を崩さずに応じていくことで、おそらくはぐらかしているわけだけど、この場合、正面から受け止めるっていうのは難しいよねw
 で、「やっぱりあんはええ人じゃよ。正直で」とか言ってあくまで「いい子」説に押しとどめようとしたり(原節子は「自分はいい子なんかじゃないんです」と訴えてるのだから、これはごまかし)、「お母さんの時計じゃけえどな」とモノをやって慰めようとしたり(泣く子どもにアメをやって泣きやませるみたいな)、どこか慌ててるところが出てしまっているのがおかしいのだけど、まあ全然正面から受け止められてないようでいて、実はしっかり受け止めているみたいなところもあって、原節子の嗚咽(=感情の発露)を引き出してるのは、たぶん受け止めているというコトなのだと思う。
 たぶん、しっかりとした態度と口調で慰めるような、一見正面から思いを受け止めているように見える受け止め方で対応するよりも、ずっと真摯に彼女の思いを受け止めているし、また、そのことは彼女の側にも伝わっているとも思うのだ。
 それに、笠智衆は、思いを受け止めかねているようでいて、言うべきコトはすべてきちんと言っている。評価を与えて、原節子の承認欲求を満たしている。これもたぶんいいところなのだけど、やはりいちばん心を打たれたのは、相手の思いの真摯さに逃げ腰になりながらも、そこを逃げずに(w)、重い思いを一見飄々とした態度で、しかししっかりと受け止めている笠智衆の姿は、非常に勉強になるなというコトで。この映画からは、他人の思いの受け止め方みたいなものを学べたように思う。
 まあ、ぐだぐだなんですけどね。
 一生懸命さは伝わった!、みたいなw




以下、参考リンク。


 東京物語@Wikipedia


 デジタル小津安二郎 


 東京物語@日々是映画 


 細馬宏通「東京物語」の忘れ 




 『天然コケッコー』予告編

 2007年。監督山下敦弘、主演夏帆、原作くらもちふさこ。1分28秒あたりから、田舎に住む娘が修学旅行で初めて東京を訪れて、あまりの人の多さに戸惑うという印象的な場面が数秒ですが見られます。


 三角チョコパイティーセレクト@日本マクドナルド

 2007年。出演は、チェルシー舞花、徳永梓、矢倉亮。思いを受け止めないコトで成り立っている人間関係の例。和やかに言葉遊びを楽しんでいるのだけど、男の子が楽しそうに女の子に視線を向けると、目をそらされるw オリーブ少女系というか下北系というか、オシャレな子たちの間に見られる、恋愛とかそういうどろどろしたことはイヤみたいな雰囲気がよく表現されていて、笑ってしまうw そんな植物的な人間関係の輪の中で生きてると、「人間力」(by 山本昌邦)が身に付かないよw