しがみつくココロ―安藤尋『ココロとカラダ』



ココロとカラダ【ラブコレクションシリーズ】 [DVD]

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 『ココロとカラダ』は、2004年に公開された安藤尋の作品。詳細は、『ココロとカラダ』@CINEMA TOPICS ONLINEが詳しい。
 同じ監督の『blue』(2001年)と同様、女性同士の関係を描いているのだけど、こちらは実在の事件をモデルに描いたとされ、内容は異様に殺伐としており、『blue』のネガと言える作品になっている。


◆自分がないヒロイン
 紹介されなければ、誰も見ようとしない映画だと思うので、どんどんストーリーも紹介していきたいのだけど、『blue』がそうであったように、この映画でも、退屈な日常を過ごしていて、自分が人生において何をやりたいのかさっぱりわからないし、そもそも自分というものがあるかどうかすらわからない少女が登場し、自分とは対極にあるタイプの女性に惹かれていく、というところから、ストーリーが始まっていく。しかし、この映画のストーリーは、『blue』における美しい友情の物語のようにはまったくなっていかず、どこまでも無様で痛々しく、それゆえにリアルな展開を示していく。
 愚鈍な少女知美(阿久根裕子)は、高校卒業後、地元でレジを打つばかりの毎日を過ごしていたのだが、高校時代に異常な状況下で知り合った友人の恵子(未向)の下に転がり込む。知美は、自分の夢もなく、楽しいことを探すこともできなければ、好きなものも選ぶことができない女であり、彼氏がいたこともなく、処女のままだ。(ちなみに、安藤尋の処女作は、『超アブノーマルSEX 変態まみれ』というピンク映画らしい。見たいぞ、『超アブノーマルSEX 変態まみれ』。←なんで二回言うねんw)。


 だから、知美は、とにかく平板で退屈な人生から自分を救ってくれる存在を求めて、恵子にしがみつこうとするのだけど、これはいかにも遅いように見える。そういうのは、普通は高校卒業までにすませておくのではないだろうか。例えば、年長の兄や姉がモデルになったり、中学校の同級生や先輩がモデルになったりするのだけど、自己を形成していく時期に、とにかく身近に自分が憧れる存在を見出して、その人の真似をして影響を受けるということをした記憶は誰しもあるはずだし、逆に自分が後輩や弟妹に、真似をされたり、影響を与えたりした経験を持つ人もいるはずだ。
 そして、最初は身近な存在に影響を受けるのだけど、しだいに憧れの存在は、作家やミュージシャンといったメディアの向こう側の存在に移行していく。作家やミュージシャンの本やインタビューを読みつつ、彼らが影響を受けたものを吸収して、自分の価値観を作っていく、ということをしながら、高校卒業くらいまでは、それなりに自分の価値観や考え方を築いているものなのではないかと思う。


 ところが、知美はおそらく高校時代をただぼんやりと過ごしたのだろう(そういう風に過ごす人は何人か心当たりがある。ぼく自身もちょっとそんな感じだったりする)、高校卒業後になって、ようやく誰かの真似をして自分を作ろうとする、という試みを始める。
 それでとにかく何でも恵子の真似をしようとするのだけど、ところで、恵子は自分の部屋に男を呼んで売春をすることで生計を立てている。
 なので、恵子の客を恵子に無断で奪って売春をするのだけど、それがばれて、「あんたは他人の男と寝るために東京に来たの!?」とキレられ、部屋を追い出された挙げ句に、階段の下に突き落とされる。
 けれど、知美には何もない(他に行くあても/頼る人も/仕事も/やりたいことも/何も)こと、知美が自分に憧れており必死に自分の真似をしようとしているだけだということに恵子も気づいているので、結局恵子は知美を許す。許して、今度は対等の友人としてではなく、姉と妹、兄貴と舎弟、保護者と庇護者、何でもいい、とにかく上下の関係をはっきりさせた上で、一つの部屋での女同士の同居生活を再スタートさせていく。


◆映画の引用―『贅沢な骨』と『ラブ&ポップ』
 ところで、この映画は、行定勲監督の映画『贅沢な骨』(2001年)を念頭に置いているように見える。というのは、この映画も女同士の同居生活が描かれており、麻生久美子が演じる一方の女性が売春婦でお金を稼ぎ、つぐみが演じるもう一人の女性を養っている、という関係が描かれるからなのだが、『贅沢な骨』という映画はどうも観念的で絵空事という印象が強く、まったくリアリティーがないように思える。
 麻生久美子が売春をしつつ、つぐみの分まで稼いでいる(つぐみを同性愛的に好きだからなのだが)というのもそうだし、麻生が自分は不感症だから売春を続けられるのだと言っていること、にもかかわらず、初めて感じることができたという永瀬正敏演じる客と親しい関係になること、麻生が永瀬につぐみを抱くように頼み、実際に抱いてもらうのだが、そのことについて、麻生は本当は自分はつぐみのことを愛していて、永瀬の体を通じてつぐみを抱きたかったのだと述懐すること、いずれもぼくには嘘くさく感じられて、脚本を書いた行定が頭で考えた、観念的なストーリーにすぎないように思える。


 『ココロとカラダ』では、恵子は、知美に、この部屋にいたいのであれば、あなたも売春をしてお金を稼ぐようにと言う。知美は、誰でもいいから何をしたらいいか命じてくれる人がほしい、自分をどこかに連れていってほしい、と他人にすがりついている時期にある状態だから、恵子の言う通り売春で金を稼ぎはじめる。
 ここでもう一本の映画が召喚される。庵野秀明監督/村上龍原作の映画『ラブ&ポップ』(1998年)だ。
 知美は、暴力的な客に遭遇して、手ひどい暴力を振るわれるのだけれど、その客を演じているのが、『ラブ&ポップ』のラストで三輪明日美演じるヒロインを脅かした暴力的な客を演じたのと同じ浅野忠信なのだ。これは完全に、確信犯的に配役を選んでいる。ただし、『贅沢な骨』を批判しているように、『ラブ&ポップ』についても批判的な関係を取り結んでいるかどうかはよくわからない。援助交際と言いつつ売春を行うわけではない『ラブ&ポップ』の欺瞞を批判していると言えそうな気もするが、そう一概には言えない気もする。


◆遅すぎた成長
 知美は、浅野忠信にぼろぼろにされるのだけど、この辺りで見ている側は、このまま恵子に付いていったら、いったいどこに連れて行かれることになるんだろう……と不安になってくるし、どうもろくなことにならなさそうだということに、実は知美も気づいているのだ。
 けれど、知美はもう引き返そうとしないし、最後まで恵子に付いていく。
 ラストシーン、確実に起こるであろう破滅を予感した状況の中で知美は言う。「これからどうなるかなんてわからない。でも、かまわない。ずっと一緒だよ」。


 この言葉は、この場面まで、映画の中で終始一貫して何を考えているかさっぱりわからなかった知美が、初めて心中の思いを明かした言葉であり、また、決して恵子に命令されたものでもない。
 恵子に付いていく、という決意自体は、知美自身の決意なのであり、これは彼女がおそらく人生の中で初めて主体的に選択した決断なのだ。
 おそらくこのとき初めて知美は、「自分」というものを手に入れている。もちろん、それは一般的には遅きに失した成長だったということになるのかもしれない。けれど、人生において遅きに失することなんてあるのだろうか。生きている限りにおいて、遅すぎることなんてものはないのではないか。
 未だに自分は成長段階にあり、十分な成熟度に達していないと自己評価しているぼくとしては、そう思う。