動画の時代/blogが動画でできるコト



 ピタゴラ装置ピタゴラスイッチNHK



 1秒間で13回拍手する男に挑戦してみた

 本日21日NHKスペシャル新動画時代 メディアが変わるに出演しました。@秒刊SUNDAY




 3月21日にNHKで放送された、「放送記念日特集〜新動画時代 メディアが変わる」を見ました。
 放送内容は、NHKのもどかしさを感じた、放送記念日特集「新動画時代」@シロクマ日報「ネットはアメを売る前の紙芝居屋」論@POLAR BEAR BLOGでこの番組について詳細に言及されているので、参照してください。この番組については言いたいことはたくさんあるんですけど、ここでは、このblogにかかわることだけ、簡単に言及しておきます。


 いまや、若い世代では、TVを見ずにネットに繋いで動画を見ている人の比率が非常に多くなっていて、もうTVなんて見なくなってきている、という話が番組の前提になっていたんですけど、そうなんですよね。ぼくもTVはあまり見ないんですが、地方ではアニメなんてほとんど放送してないですからね。
 なので、アニメはレンタルDVDで見たり、YOU TUBEに上がってるアニメをこっそり見たりしてるんですけど(京都アニメーションのアニメについてはお墨付きが出てるよう(。「らき☆すた」売れまくったのは 違法投稿が「宣伝」してくれたから)、アニメの放送がないとなると、テレビっ子をテレビ局が逃がしてしまうのは何故か(@アンカテ)でも言われているように、TVはすっかりつまらなくなってしまっいるわけで。まあ、ぼくはバラエティー番組を見ていても別に不快ではないし、見てればそれなりに笑えたりもするんですけど、積極的に見たい/見ようというような感じでもないですしね。


 で、こういう過渡期には、必ず亡国論が出てくるはずなんですけど、動画についてはまだ出ている気配がないですよね。亡国論というのは、「マンガ亡国論」「ゲーム亡国論」「女子大生亡国論」「女子高生亡国論」などなど、大人が理解できない若者文化が出現すると、必ず「○○が日本を滅ぼす」「若者たちは○○ばかり触れているので、どんどんバカになっていっている」「こんなバカな若者たちが日本を支えるようになったら日本は終わりだ!」といったタイプの言説が流布されるコトなんですけど、動画についてはコンテンツ産業をダメにするといった経済の問題については指摘する人がいるけれど(「日本のコンテンツ、ネットのせいで沈む」とホリプロ社長@ITmedia News)、動画亡国論はまだ出ていない。
 それは当然で、動画を批判するとなると、動画を批判する立ち位置にはTVが来るわけだから、「若者よ、わたしたちはTVを見て育ったので、こんなに立派な大人になったんだぞ。動画ばかり見てるとバカになるぞ。もっとTVを見なさい」なんてコトは滑稽にすぎるので言えない。「昔の若者はたくさん本を読んでいたので教養が豊かだった。今の若者はマンガばかり読んでいるので……」というマンガ亡国論のようには、論理構成できないわけです。(読書崇拝派が動画亡国論を主張する可能性はある)


 けれど、もし「動画亡国論」がありえるとしたら、「『いまのお笑い』亡国論」が参考になるかな、という気はする。「いまのお笑い」は、すっかりダメになった、昔のお笑いはもっと知的で、豊かな教養に裏打ちされたものだった、みたいな言説ですね。たしかにお笑い史的にはそうなのかもしれないし、ぼくも怒りを感じたり、たしかにつまらなくなったとも思っているのだけど、でも、たかがお笑いじゃないか、という視点は持っていたいと思うんです。それがお笑いの矜持でもあるだろうし、笑い飛ばしてしまえばいいんです。
 他にもいろんなジャンルで、亡国論と同じパターンの言説が流布されてると思うんですけど、例えば、「いまのマンガはつまらなくなった」というのは、「『いまのマンガ』亡国論」ですよね。「日本が滅ぶ」というところに繋げないので亡国論とはいえないのかもしれないけれど、どこかしら亡国論的な感じがするんですよね。
 で、「『いまのお笑い』亡国論」が参考になると言ったのは、最近ある作家のblogで、「最近のお笑いは、1分くらいでネタを披露して客を笑わせなければならないらしい。視聴者の集中力は1分しか持たないと、TV局は考えているようだ」と指摘しているのを見たからなんですけど、動画の特徴を考えると、NHKの番組でも指摘されていたように、動画はTVより短いというのがあると思うんですよね。
 で、もし某作家の言うように、TV番組がいま「視聴者の集中力は1分しか持たない」という考えで制作されているとしたら、それは動画の影響もあるかもしれない(もしくは同じ感性の変容に根ざす変化とみるか)。となると、「TVの時代はよかった。視聴者は長いTV番組を見続ける集中力があった。今の若者は動画ばかり見ているので集中力がない」という論理構成も可能かな、と思うんです。起きよ、動画亡国論! とか思うんですけど、まあネタなんですけどねw 本当に起こったら笑いますw


 さらに仮説に持論を重ねていく「半分ネタ・半分本気」エッセイは続くんですけど、「映画は映画館で見るものだ」言説というのもありますね。映画をDVDやTVで見ると、魅力の大半は失われてしまうみたいな。そして、映画というのは、基本的には、二時間であるとか、長い時間を映画館の客席に座って、ただひたすら集中して映画を見るものなわけです。
 つまり、イデオロギーが動画と正反対なわけです。イデオロギーと言ってるのは、映画はおそらくいまこういうイデオロギーによってかろうじて支えられている面があると思うんですよね。そのことが映画を他のメディアと差異化する根拠になっている、みたいなところがある。映画は、TVやDVDや動画とは違って、いまや稀少となった豊かで贅沢な映像体験であるという風に、映画だけ特権化されるわけです。ぼくも映画ファンでもあるのでそれは正しいと思うのですが、正しいと思うのがイデオロギーの内面化というコトで、それがイデオロギーであることは認識しておかないといけないんじゃないかな、と思うわけです。映画の黎明期にはそんな言説はなかったわけで、映画がTVの登場で危機を迎えることで、初めて出てきた言説なわけですからね。


 で、このblogはといえば、毎回更新のたびに動画を貼ってるような気がするんですけど、blogに動画を貼れるっていうのはおもしろいな、たったそれだけのことでいろんなことができるな、という可能性を感じているんです。もちろん、逆に動画を貼れることで閉ざしていってる可能性もあるんですけどね。
 ここでも書いたように、モーニング娘。関連のテキストサイトが盛り上がった時期には動画を貼る技術はなくて、けれどそのことで充実したテキストが書かれていった。もし動画があったらまた別の形、別の流れになっていたと思うんです。


 けれど、いまは動画を貼れることによってどんなおもしろいコトができるのか、というのを試してみたいと思っていて、小津安二郎『東京物語』のエントリでは、動画+テキストで映画を見ちゃおうぜ!、という映画ファンからすれば噴飯ものの試みをやってみたというわけなんですけど、どうだったでしょうか。
 もちろん、このエントリを読む/見るだけで映画を見たことにはならないんですけど、どんな映画かはわかるし、映画の魅力を知ることができて、実際に見てみようと思う読者もいるかもしれない。50年前の映画がおもしろいなんて気づいてる人はおそらく少数派なのだから、読者に映画の魅力を伝えられるかもしれない、と思ったんですよね。
 まあ、読み返してみて、あんまりうまくいってないなあ、とも思うのですがw 他の方がこういうエントリを上げていたら読みたいな、と思っているので、こういう試みをしているblogがあったらぜひ教えてください。(町山さんはときどきやってますけどね)


 脈絡があるようなないような微妙なところを行くエントリでしたが、まとめとしては、1.動画はおもしろいぞ、2.動画亡国論はありえないぞ、3.blogは動画+テキストでどんどんおもしろいことがやれるぞ、というコトで。




マンガと日本人―“有害”コミック亡国論を斬る

マンガと日本人―“有害”コミック亡国論を斬る



東大生はバカになったか―知的亡国論+現代教養論

東大生はバカになったか―知的亡国論+現代教養論



フリーター亡国論

フリーター亡国論





少子亡国論―低出生率社会をどう乗り切るか

少子亡国論―低出生率社会をどう乗り切るか



 大学に女性が入ってくるようになったけれど、彼女たちはカルチャーセンターに通う感覚で大学に通っていて、大学卒業後、社会の役に立つ意欲など最初からない。そういう女子大生のために、社会で役立つはずの男子学生が大学に入りづらくなっているのは、社会にとってよくないことだ。このままでは日本はダメになってしまう……というのが、女子大生亡国論。もちろん、いまや女性が社会を支える時代と言われるほどに女性の社会進出は進んでいるので、いまでは誤りが証明された議論です。
 けれど、考えてみれば、女子大生亡国論は、少子化亡国論によって再び蘇ってきているのかもしれないですね。女性の社会進出が進むと、女性は自分の人生を充実させるために子どもを産まなくなる。女性は家庭にとどめておくべきだ、学校では裁縫だけやらせていればいいんだ、といった感じで。怖いですね。


女教師亡国論 (1984年)

女教師亡国論 (1984年)

 女教師亡国論は読んでみたいぞ。内容が想像できんw