大阪府立国際児童文学館、廃止決定



当財団の今後の方向性について(ご報告その5)@大阪府立国際児童文学館、平成21年11月3日



 本年3月大阪府議会において、「大阪府立国際児童文学館の廃止条例案」が可決成立しました以降も、当財団といたしましては、皆様方のご支援をいただきながら、あらゆる可能性を求めてまいりました。しかし、これまで有効な打開策はなく、刻々と廃止期限が迫る中で、昨11月2日、当財団役員・評議員が相寄り、今後の方向性について協議いたしました。
 その結果、大阪府が本年8月19日「戦略本部会議」において示されたイメージに添った形で、当財団としても対応していかざるを得ないとの結論に至りました。これまで当館の存続を目指し、広範かつ絶大なご支援をいただきながら、かくなる仕儀に至りましたこと、真に申し訳なく関係各位に心より深くお詫び申し上げます。
 大阪府の方針により、大阪府立国際児童文学館は来年3月末日(予定)をもって廃止、所蔵資料は府立中央図書館に移転されます。府議会での附帯決議をふまえ、3年程度の移行期間を経て、中央図書館司書による新たなマネジメント体制により、子どもの読書推進を強化するとされています。



 大阪府立国際児童文学館の廃止が決定したようです。児童文学館は今年12月28日から休館、来年3月末日で廃止、所蔵資料は府立中央図書館に移転、財団法人大阪国際児童文学館は存続し、「これからも子どもの本を通じて、子ども文化の振興をめざして活動を続け」ていくとのこと。
 2008年3月に存続の署名運動が行われた際には、当blogでも署名を呼びかけました。廃止までの経緯は、当blogのbookmarkから辿ってみてください。こういう結果になったことは、非常に残念です。




 参考
大阪府立国際児童文学館は、12月27日で事実上閉館@宮本大人のミヤモメモ
休館のお知らせ@大阪府立国際児童文学館

繊細な狂気―魔ゼルな規犬



 魔ゼルな規犬@精神病院隔離直前コンサート。



 「ナゴヤエイフェックス・ツイン」こと魔ゼルな規犬。名前はニコニコ動画で動画を組み合わせたら面白くなったとかカオスになったとかを表す「混ぜるな危険」から。
 名古屋、東京を中心に活動するアーティスト/パフォーマーで、繊細な音楽を紡ぐ一方で、バッドトリップ系の精神世界に通じるような過激なパフォーマンスを行っているようです。現在は「魔ゼルな企画」というイベントを主宰し、メジャーなメディアには絶対に乗らないようなアーティストの表現の場を提供しているとのこと。詳しくは、魔ゼルな規犬インタビュー「馬仮面の告白」@特集:CINRA.NETを参照して欲しいのですが、本人が危ない人というわけでは……あるのか? まあ一応家庭も持っているようだし、表現として行っているということではあるようです。


 魔ゼルな規犬アメリカでライブ



 馬の仮面、切迫した語り、いずれにせよ普通じゃない雰囲気が濃厚ですが、↓の動画のように、音楽は、繊細で美しいんですよね。もちろん、「美しさ」と「狂気」は裏表の関係にあるのでしょうが*1


 魔ゼルな規犬「5nennmae」





「090-9170-6967」

「090-9170-6967」




*1:もちろん、表現として、ですね。ありがちな組み合わせと言えば言えるし、アウトサイダー・アートとの隣接領域にある、表現として洗練されたものだと思いますね。

レヴィ=ストロース訃報



 11月4日・午前1時半、twitterをちらちら見ながら作業をしていたところ、レヴィ=ストロースの訃報が飛び込んできました。
 ルモンド紙(一面)→http://www.lemonde.fr/
 YOMIURI ONLINEhttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20091104-OYT1T00134.htm
 47NEWS(共同ニュース・速報)→http://www.47news.jp/news/flashnews/


 文化人類学者で、その方法論は構造主義の源流となりました。彼の考え方を継いでいった構造主義ポスト構造主義の思想家たちは、みな彼より先に亡くなってしまって(twitterでまとめました→http://twitter.com/helpline/status/5396188454)、一人レヴィ=ストロースのみが100才を迎えてなお元気に見えたので、みんなあの人は不死身なんじゃないかとネタにしつつ、どこかで拠り所にしているところがあったのですが、ついに亡くなってしまいましたね。100才にして本を書いてほしかったのですが。
 個人的には、高校時代、夏の暑い日に『悲しき熱帯』を読んでいた風景を鮮明に思い出します……。ともあれ、一読者、一ファンとしてご冥福をお祈りします。




野生の思考

野生の思考



悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)




ハウスレクチャ(ゲスト速水健朗)@仙台、11.6



 ハウスレクチャ(ゲスト速水健朗、日程:11月6日、会場:仙台市卸町阿部仁史アトリエ)、参加します。
 ハウスレクチャは地域や都市の再生を考える公開講座で、今回のゲストは速水健朗氏ということです。速水健朗氏は、『ケータイ小説的。』がよく知られており、ぼく自身も「郊外」の問題について考える際にとても影響を受けた本です。地方/郊外で生きる息苦しさって、ずっと感じて生きてきましたからね。速水氏が仙台という郊外的な空間でどんな話をしてくれるのか、すごく興味があります。若者文化、ヤンキー文化、郊外化といった問題について貴重なお話が聞けると思いますので、仙台近郊にお住まいの方で、興味のある方は、参加申し込みしてみてください。


 申込み期限は11月2日となっていますが、おそらくまだ間に合います。というのは、申込み先のメールサーバがgmailで、詳しくはわかりませんが、gmailはここ一週間の間にメールの送受信ができないトラブルに見舞われていたようなんですよね。ぼくも27日に申込みをしたのに返信が来なくて、31日に再送して即日返信が来ました。そういったこともあるので、おそらく今から申込みをしても大丈夫です。
 まったくgmail……*1。こんなことで盛り上がらなかったら、主催者も速水氏も気の毒すぎるので、興味のある方はぜひぜひご参加ください。



 ハウスレクチャ


 ゲスト:速水健朗フリーランスライター/編集者)
 主な著書:『自分探しが止まらない』(ソフトバンク新書)、『ケータイ小説的。』(原書房)、など
 コーディネーター:五十嵐太郎東北大学
 期日:11月6日[金]18:30開場 19:00開演
 場所:仙台市卸町3-3-16 阿部仁史アトリエ
 参加費:1000円
 申込み:houselecture@gmail.com(名前、所属を明記の上)
 〆切り:11月2日[月]定員50名 先着順
 問合せ:09037574826(阿部篤/東北大学
 主催:東北大学都市建築デザイン学講座+阿部仁史アトリエ
 協力:協同組合仙台卸商センター
(車、バイクで来場の際は卸商センター共同配送センター脇の臨時駐車場・駐輪場を利用)


 引用元→http://www.motoelab.com/blog/20091019173747.html





ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち



自分探しが止まらない (SB新書)

自分探しが止まらない (SB新書)




*1:ぼくも以前、メールサービスでトラブルに見舞われたことがあります。すごくイライラしました。

拡散する主体のドライヴ―岡崎乾二郎のくるり論



 くるり「ばらの花」PV(2001)



 「ユリイカ」2003年6月号「特集:Jポップの詩学」所収の岡崎乾二郎インタビュー「音はニホンゴを断ちきれるか」より、くるり論を紹介。岡崎は、「学生たちと接していて感じる今の気分がよく出ている」曲の例として、今やくるりの代表曲の一つとなっている、7thシングル「ばらの花」(2001)を挙げる。



 たとえば「ばらの花」という曲があって、ジンジャーエールを飲みかけのまま、宙づり状態でぼんやりした頭の主人公が旅に出て、女の子に恋の告白をしようとする、しかし実際には旅にも行かず告白もしない。打ち込みリズムでドライブをかけているから、車で運転しているときに聴いたりするとピッタリなのですが、しかし、実際にはどこにも行かない。バスには乗りおくれるし、近づいたと思っても遠ざかっていく。暗がりの中で君が見ていると感じたけれど、実は君も僕もいない。すべては飲みかけのジンジャーエールの宙ぶらりんな状態にもどる、つまり頭が気の抜けたソーダと化している(笑)という情けない歌ですが(中略)



 なるほど、そういう歌だったんですね。たしかに今時の若者っぽい*1



 こういう意識朦朧の状態の中で、「さあ出かけよう、君と僕」と、目的が宙づりのままドライブがかけられ言葉が重ねられていくと、他人の言葉と自分の言葉の区別もなく、すべてがひとつの運動の中に連続して感じられてきてしまう。(中略)
 自分が何を探しているかもわからないので探しにいく。何を感じていたのかわからない。自分が帰属する場所から遊離してしまった上に、そもそも感覚されている対象が曖昧で、感覚の統合がばらばらになってしまっている主体がひたすら彷徨いつづける。(中略)
 「ワールズエンド・スーパーノヴァ」では「夜を越えてどこまでも行ける」と気張っているけれど「僕らいつも考えては忘れてる」。「ワンダーフォーゲル」では「手のひらから大事なものがこぼれ落ち」てしまっているし、「ハローもグッバイもサンキューも言わなくなって」、みんなすれちがってばらばらになってもまだ歩きつづけている。



 言われてみれば、「ハイウェイ」(2003、映画「ジョゼと虎と魚たち」主題歌)でも旅に出る理由が百個ぐらいあるんだと言いながら、結局旅に出ることはなくて、最終的には旅に出る理由なんて一つもないということになった挙句に、すべて後回しにしちゃおうとか言ってるし、ことごとく不発で不完全燃焼なぐずぐず感が漂ってるんですよね*2だがそれがいい、と。
 そして、音楽史・ロック史的には、次のように位置づけられるということのようです。



 くるりは、誰もがいうように、はっぴいえんどとか、ムーンライダーズの流れを感じるけれど、日本語の中から主体を希薄化させていくことで、日本語をロックと融合させていくという主題にピッタリ焦点が合ってる感じがするんですね。



 なるほど。ぼくはくるりが登場してきた頃すでに同時代的な音楽との接点を失っていく年齢になりつつあったので、くるりの重要性っていまいちちゃんと認識できなくて、なんで特権的なバンドとして語られてるんだろう?って腑に落ちない気持ちがあったんですけど*3、今更ながらやっと納得しました。
 これ以外にも、「世界の中にいながらその実感がない」が「自分の身体的な反応」を通じて「自分がいることがやっとたしかめられる」とか、「岸田繁さんという人はきっとインテリで、大学で現代思想の授業にでたりして、コジューヴがどうしたフクヤマがどうしたと聞かされたりしてきた人だと、僕は勝手に推測しているんですけど」……など、興味深い洞察が重ねられているので、興味のある方は現物に当たってみてください。


 「ワールズエンド・スーパーノヴァ」PV(2002)



 「ハイウェイ」PV(2003)





ベストオブくるり/ TOWER OF MUSIC LOVER

ベストオブくるり/ TOWER OF MUSIC LOVER



ユリイカ2003年6月号 特集=Jポップの詩学 日本語最前線

ユリイカ2003年6月号 特集=Jポップの詩学 日本語最前線




*1:ただし、岡崎氏は、「ただしこの希薄さ、空虚さが音楽の必然が要請する主体のあり方であって、実体化してしまう必要はないわけですね」とも述べている。

*2:そろそろ車の免許とろうとか言ってるのだけど、おそらく取らない。「ハイウェイ」というタイトルであるにもかかわらず、語り手は免許すら持っていない。ハイウェイの曲じゃなくて、「ハイウェイを旅するのを想像した」っていう曲なんですね。

*3:ちなみに、もう一つ、いまいち理解できてなくてやばいと思ってるのが、ナンバーガール

アインシュタインだって大好きにちがいない―相対性理論



 相対性理論「LOVEずっきゅん」



 このバンドも、今最も注目されてるバンドと言っていいんでしょうね。「ポストYouTube時代のポップ・マエストロ」「全天候型ポップ・ユニット」こと相対性理論。2006年9月結成。サウンド面ではおそらく70年代のフォーク/ロックを参照しつつ、そういうのを感じさせない脱力キュートな女の子ボーカルの力が抜けてる感じがよいです。気合い入ってないのが、相対的にロックとして機能してるんですよね。
 言語センスも抜群ですね。ぼくは「由比ヶ浜」でテンションが上がるんですけど、なんででしょうね? 古文っぽいからかなあ?


 「学級崩壊」



 非常勤講師的には微妙な曲ですが、この曲も言語センス抜群なんですよね。ささやき系の声で歌われると、なんだか愛おしい気持ちを持て余してしまってどうしようという感じですね(笑)


 「ふしぎデカルト



 バンド名に由来する科学系の楽曲群も不思議な味わいで、よいです。




シフォン主義

シフォン主義



ハイファイ新書

ハイファイ新書




誤配の利用法―伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』



ゴールデンスランバー

ゴールデンスランバー



 まずは、「よくできました」と誉めてあげたい。テーマは、第一には「監視社会」。時の首相が仙台市の東二番庁通りで暗殺され、スケープゴート役(オズワルド役)に仕立てられたごく普通の青年が、監視装置が張りめぐらされた仙台市内を逃げ回る、というストーリー。国家権力が設置した監視装置と無責任に事件を娯楽として消費しようとするメディアが結託し*1、携帯電話の盗聴・切断や警官による「協力の要請」など、青年と友人たちを分断し、青年を追い詰めていく。


 けれど、必ずしも監視社会が人と人をバラバラにするものだというわけでもないのがこの小説の面白いところで、主人公の青年は30代半ばくらいの年齢なのだけど、20代を楽しくすごした仲間たちとはすでにバラバラになっており、信頼する先輩と音信不通になっていたり、かつての恋人と連絡を取らなくなったりしている。この小説では、白やぎさんと黒やぎさんのお手紙の歌が、若者のコミュニケーションのすれ違いの象徴として出てくる。
 20代のころ主人公と彼女がデートの待ち合わせをしたとき、主人公は携帯電話で何度も確認しようとしたのだけど、彼女の方はバイト中携帯をオフにすることにしていたので確認せず、そのまま忘れて待ち合わせの時間に大幅に遅れるエピソードが語られるが、これは結局のところ主人公が彼女にふられてしまう結果になることを象徴するエピソードとして置かれている。ここでは、コミュニケーションツールが発達しても、いや、したからこそすれ違うコミュニケーションのありようが描かれているように思える*2


 しかし、現代的な若者たちのすれ違うコミュニケーションは、さらに反転した形で、逆に主人公たちの関係を結びなおすものとして利用されていく。ここのところも面白い。この小説のタイトルはビートルズのラストアルバムの曲名に由来し、ビートルズのメンバーはすでにバラバラになっていたのだけど、ポール・マッカートニーが必死になってメンバーたちが作った曲をメドレーにつなげていったメドレー曲の一曲目のタイトルが「ゴールデンスランバー」なのだというように、タイトルには、「バラバラになったものをつなぐ」という意味が込められている。主人公と友人たちは国家権力によってお互いに分断されながらも、国家権力の目の届かない私的な領域にあるものを頼りにつながり協力関係をもっていくのだけど、このとき主人公たちが利用するのが現代の若者が大得意な「迂遠なコミュニケーション」なのだ。
 現代の若者たちはとても優しくて、相手のことを深く思いやって、相手がしてほしいことを先の先まで想像してやってあげようとする。それでいて、ダイレクトに気持ちを相手に伝えることは苦手なわけだけど、そういう迂遠なコミュニケーションが「現代の若者」の特徴で、もちろん、こういうのはやってる本人たちにとっても「居心地がいい」という思いと「これではダメだ」という思いが、相半ばするような類のものだ。だから主人公と彼女は別れることになったのだとぼくは思う。


 なのだけれども、国家権力に連絡を分断された状況においてはこれはおおいに「武器」になる。なにしろ、連絡を取り合ってないのに、お互いのためを思って行動できてしまうのだから。おそるべし、やさしき若者たちの深読みコミュニケーション。ほとんどテレパシーみたいなもので、これは相手にする国家権力にとっては厄介だ。主人公たちは、自分の行為が必ずしも相手のためになるとは限らないこと、やっても手遅れになってしまうかもしれないことを覚悟しつつ行動し、それは国家権力の「裏をかく」結果を結実させるのだ。
 伊坂は、そういうデメリットの逆利用によるメリットの抽出みたいなのがとても巧みな作家で、この小説でもうまいと思う。結局、国家権力のフレームアップによる冤罪事件も、バラバラになった主人公たちのつながりを結びなおすきっかけになるものでもあるわけで、20代を過ごした仲間たちはバラバラになっているのだけど深いところでは今もつながっていて、そうしたつながりが事件を通して結び直されていくというのが、この小説のぐっとくるところだったりする……というように、監視社会、メディア、携帯電話など、テクノロジーの発達/普及がもたらした現代社会における国家や社会状況、そして個人のコミュニケーションのありようが輻輳的に織り込まれていて、重層的な現代寓話となっているというのが、この小説の特徴ということになるだろうか。


 文学の系譜としては、ジョージ・オーウェル1984年』など監視社会を描く小説とともに、カフカの不条理文学の系譜に連なる作品だと思う。黒幕がそれ自体としてはたいした存在などではないということは、事件から数十年後の「現在」から事件を振り返る冒頭の数章において明らかにされている。一度動き出したら止まらないシステムとしての官僚機構という現代的な「悪」が描かれており、これはカフカを連想させるし、逆にカフカが現代の監視社会を先取りしていたことにも気づかされる。
 監視社会、メディア、ケータイといった現代社会をめぐる状況/環境を批評的に書き込みつつ、しかもエンターテイメント小説としても青春小説としても楽しめる作品で、非常によくできていると思う。したがって、無条件に「よくできました」はあげられるのだけど、さて、「たいへんよくできました」をあげられるかというと、ぼくは保留にしたいと思う。理由は、2年前の「重力ピエロ」書評に書いたような期待を今でも伊坂には持っているからで、伊坂への期待値はめちゃくちゃ大きいのだ。



*1:犯人像をでっち上げていくメディアの情報操作ぶりは、逃走劇も含めて酒井法子の事件を連想せずにはいられない。(事件は2009年8月、小説は2007年11月)

*2:こうしたコミュニケーションの空間は、郵便空間的と言っていいだろう。