誤配の利用法―伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』



ゴールデンスランバー

ゴールデンスランバー



 まずは、「よくできました」と誉めてあげたい。テーマは、第一には「監視社会」。時の首相が仙台市の東二番庁通りで暗殺され、スケープゴート役(オズワルド役)に仕立てられたごく普通の青年が、監視装置が張りめぐらされた仙台市内を逃げ回る、というストーリー。国家権力が設置した監視装置と無責任に事件を娯楽として消費しようとするメディアが結託し*1、携帯電話の盗聴・切断や警官による「協力の要請」など、青年と友人たちを分断し、青年を追い詰めていく。


 けれど、必ずしも監視社会が人と人をバラバラにするものだというわけでもないのがこの小説の面白いところで、主人公の青年は30代半ばくらいの年齢なのだけど、20代を楽しくすごした仲間たちとはすでにバラバラになっており、信頼する先輩と音信不通になっていたり、かつての恋人と連絡を取らなくなったりしている。この小説では、白やぎさんと黒やぎさんのお手紙の歌が、若者のコミュニケーションのすれ違いの象徴として出てくる。
 20代のころ主人公と彼女がデートの待ち合わせをしたとき、主人公は携帯電話で何度も確認しようとしたのだけど、彼女の方はバイト中携帯をオフにすることにしていたので確認せず、そのまま忘れて待ち合わせの時間に大幅に遅れるエピソードが語られるが、これは結局のところ主人公が彼女にふられてしまう結果になることを象徴するエピソードとして置かれている。ここでは、コミュニケーションツールが発達しても、いや、したからこそすれ違うコミュニケーションのありようが描かれているように思える*2


 しかし、現代的な若者たちのすれ違うコミュニケーションは、さらに反転した形で、逆に主人公たちの関係を結びなおすものとして利用されていく。ここのところも面白い。この小説のタイトルはビートルズのラストアルバムの曲名に由来し、ビートルズのメンバーはすでにバラバラになっていたのだけど、ポール・マッカートニーが必死になってメンバーたちが作った曲をメドレーにつなげていったメドレー曲の一曲目のタイトルが「ゴールデンスランバー」なのだというように、タイトルには、「バラバラになったものをつなぐ」という意味が込められている。主人公と友人たちは国家権力によってお互いに分断されながらも、国家権力の目の届かない私的な領域にあるものを頼りにつながり協力関係をもっていくのだけど、このとき主人公たちが利用するのが現代の若者が大得意な「迂遠なコミュニケーション」なのだ。
 現代の若者たちはとても優しくて、相手のことを深く思いやって、相手がしてほしいことを先の先まで想像してやってあげようとする。それでいて、ダイレクトに気持ちを相手に伝えることは苦手なわけだけど、そういう迂遠なコミュニケーションが「現代の若者」の特徴で、もちろん、こういうのはやってる本人たちにとっても「居心地がいい」という思いと「これではダメだ」という思いが、相半ばするような類のものだ。だから主人公と彼女は別れることになったのだとぼくは思う。


 なのだけれども、国家権力に連絡を分断された状況においてはこれはおおいに「武器」になる。なにしろ、連絡を取り合ってないのに、お互いのためを思って行動できてしまうのだから。おそるべし、やさしき若者たちの深読みコミュニケーション。ほとんどテレパシーみたいなもので、これは相手にする国家権力にとっては厄介だ。主人公たちは、自分の行為が必ずしも相手のためになるとは限らないこと、やっても手遅れになってしまうかもしれないことを覚悟しつつ行動し、それは国家権力の「裏をかく」結果を結実させるのだ。
 伊坂は、そういうデメリットの逆利用によるメリットの抽出みたいなのがとても巧みな作家で、この小説でもうまいと思う。結局、国家権力のフレームアップによる冤罪事件も、バラバラになった主人公たちのつながりを結びなおすきっかけになるものでもあるわけで、20代を過ごした仲間たちはバラバラになっているのだけど深いところでは今もつながっていて、そうしたつながりが事件を通して結び直されていくというのが、この小説のぐっとくるところだったりする……というように、監視社会、メディア、携帯電話など、テクノロジーの発達/普及がもたらした現代社会における国家や社会状況、そして個人のコミュニケーションのありようが輻輳的に織り込まれていて、重層的な現代寓話となっているというのが、この小説の特徴ということになるだろうか。


 文学の系譜としては、ジョージ・オーウェル1984年』など監視社会を描く小説とともに、カフカの不条理文学の系譜に連なる作品だと思う。黒幕がそれ自体としてはたいした存在などではないということは、事件から数十年後の「現在」から事件を振り返る冒頭の数章において明らかにされている。一度動き出したら止まらないシステムとしての官僚機構という現代的な「悪」が描かれており、これはカフカを連想させるし、逆にカフカが現代の監視社会を先取りしていたことにも気づかされる。
 監視社会、メディア、ケータイといった現代社会をめぐる状況/環境を批評的に書き込みつつ、しかもエンターテイメント小説としても青春小説としても楽しめる作品で、非常によくできていると思う。したがって、無条件に「よくできました」はあげられるのだけど、さて、「たいへんよくできました」をあげられるかというと、ぼくは保留にしたいと思う。理由は、2年前の「重力ピエロ」書評に書いたような期待を今でも伊坂には持っているからで、伊坂への期待値はめちゃくちゃ大きいのだ。



*1:犯人像をでっち上げていくメディアの情報操作ぶりは、逃走劇も含めて酒井法子の事件を連想せずにはいられない。(事件は2009年8月、小説は2007年11月)

*2:こうしたコミュニケーションの空間は、郵便空間的と言っていいだろう。