黒澤明を観る(2)―『わが青春に悔なし』『生きものの記録』『野良犬』



わが青春に悔なし<普及版> [DVD]

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 『わが青春に悔なし』(1946年)。今回はメッセージ性及び思想性の強い作品を取り上げたいと思うのだけど、のっけから違うことを言うようで恐縮なのだけど、『わが青春に悔なし』は、戦前の京大を舞台とする反戦映画という体裁を取りつつ、実際には、平凡な人生では満たされなくて、冒険がしたいという思いから自ら苦境に飛び込んでいく、「自意識過剰な若い女」を描く女性映画となっている。


 なので、かなり痛々しいというか、イタい。京大教授の娘幸枝(原節子)は、典型的なブルジョワ家庭のお嬢さんで、天真爛漫で華やかな女性なのだけど、普通の結婚や普通の幸せには飽き足りず、昭和八年、学生時代、学生闘争をやっていた野毛に自分が求める何かを見いだし、昭和十三年、野毛と再会すると、反国家的な反戦活動に身を捧げているらしい野毛の下に飛び込んでいく。
 このとき野毛は自分が不法活動をしていることについてしらばっくれるのだけど、幸枝は「あなたは何かを隠しているはずよ」「わたしをいじめないで」と野毛に詰め寄っていく。「いいもの」を独り占めにしているだなんてずるい、わたしにもその「いいもの」を分けて頂戴、という感じ。幸枝にとっては反戦も平和もどうでもよく、問題は自己実現できるかどうかであって、困難な道であればあるほど、達成感が得られるわけだから、自ら困難な道を選ぶわけだ。


 で、昭和十六年、野毛はスパイ容疑で逮捕され、獄中で死亡。幸枝も一度は警察に拘留されるが、両親に引き取られ、実家に帰省。しかし、今度は「野毛の両親の家に行くっ!」と言い出し、田舎の農村へ。野毛の実家はスパイを出した家として村八分にされており、野毛の両親も「そんな都会のお嬢さんに来られても……」ととまどうのだけど、幸枝は、「わたしは野毛の妻だ」と自分に言い聞かせ、「省みて悔いの生活」という野毛の言葉を繰り返し思い返しつつ、村人の嘲笑に耐えつつ、キツイ農作業に従事し続ける。このときは、「わたしは野毛の妻だ」という一点がアイデンティティーの拠り所になっているのだけど、このあたりは、観ている方もキツイ。
 そして、終戦。野毛の名誉は回復され、幸枝も一度実家に戻るのだけど、「もう村の生活に根を張っているから」、「わたしはいまや農村文化運動の輝ける指導者ってわけ」と村に戻っていく。困難な状況に耐え抜いたことで自己実現に成功し、満足のいく自分を得ることができたわけだ。ちなみに、終戦時の幸枝の年齢は32才という計算になる。


 ただし、この映画を観ていると、ちょっと不安になる。というのは、この映画は、幸枝が村人たちの視線に耐えて農作業に従事しているあたりが異様に迫力があり、幸枝の執念が異常な迫力で伝わってくるのだけど、こうした演出方法はプロパガンダ映画のそれであって、戦時中に培われた演出方法で、ただ内容が裏返されただけではないかと思われるからだ。Wikipediaによれば、この映画の背景には、GHQが奨励した民主主義映画であり、同時期に新人監督の同趣旨の映画があったことから、労働組合の圧力で映画の後半は大幅な変更を余儀なくされたという経緯があるらしい。
 やはり時代のイデオロギーと無縁の映画ではないようなのだけど、黒澤映画的には、農村の村人たちがいい面と嫌な面を併せ持つ存在として描かれている点や、幸枝が泥だらけで農作業に従事する姿の「汚し」方など、『七人の侍』(1954年)に通じていく面があるだろうと思う。


生きものの記録<普及版> [DVD]

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 『生きものの記録』(1955年)。『わが青春に悔なし』が長くなってしまったので短く。『生きものの記録』は、核戦争に異常な恐怖心を抱いた老人が家族を連れてブラジルに渡ると言い出し、当然の如く家族は反対。裁判所に準禁治産者の申し立てをするのだけど、老人はあくまでブラジルに渡ろうとするというストーリーで、視点は申し立ての裁判員となった医師の中立的な視点から、老人に対して同情的な視点から語られている。
 この映画もメッセージ的には、反核ということになるのだろうけど、核の恐怖に怯える老人の姿がこれでもかという感じで執拗に、真に迫って描写されていくために、どうにも痛々しく、やりきれない思いにさせられていく。理屈から言えば、核で滅びる可能性があるのは日本だけではなく、ブラジルだろうがどこだろうが落ちるときは落ちるのだが、老人にとっては理屈ではないのだ。言うまでもなく、老人は愚かなのだけど、愚かさが悲しく、やりきれない。


 なので、この映画はとても疲れる、やりきれない映画なのだけど、狂気を描く映画としてこれほど成功している映画もないと思う。狂気映画としては、むしろセオリー通りなのだ。狂気を主題とする物語においては、決まって、「狂気に陥った人間はむしろまともであり、世界の方が狂っているのではないか?」という反転可能性が示唆されるわけだけど、この映画は、徹底的に愚かで悲しい存在として老人を描くことによって、かなりの強度でそれに成功していると思う。老人は愚かかもしれないが、世界も愚かではないのか……。
 ただし、そうした感想は映画を観た後で、かなり遅れてやって来る。映画を観ているときには、もうただただ老人の愚かさが痛々しく、悲しく、やりきれない。老人は核に怯えているが、観客は老人に怯えさせられるのだ。


 したがって、この映画はまず狂気映画であり、反核というメッセージは遅れてやって来る映画なのではないかと思うのだけど、この言い方では言いたいことが伝わらないだろうか。
 つまり、観客が老人の姿に怯えさせられるということは、「恐怖」というのもまたホラー映画的な意味での映画の娯楽性の一つなわけだから、この映画は、反核というメッセージ性の前に、まずエンターテイメント性において優れた映画なのではないか……ということが言いたいのだけど、でも、まあ、そんなに楽しい映画ではないので、オススメはしないですよ……。


野良犬<普及版> [DVD]

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 『野良犬』(1949年)。黒澤映画のメッセージ性については、ストーリーだけではなく、ときに映像的な描写にこそ強い思想性が表現されていることがある。とりわけ黒澤明シンポジウムでも触れられていたように、『野良犬』のラストシーンは有名な例であり、自分のミスで被害を拡大させてしまった刑事が人を殺した犯人を偶然発見し、追いかける。そして、森の中で向き合うふたり。ここでカメラは刑事の背広に止まる蠅を映し出す。そして、次は刑事の足下の小さな花。
 向こう側では、小さな家で奥さんが呑気そうに洗濯を干している。ふたりの戦いはさらに続き、泥だらけになって格闘した末に、互いに精根尽き果てて、草原に仰向けになって横たわるのだけど、そんな中でも草は何事もなかったように揺れ、傍らを子どもたちが童謡を歌いながら歩いていく……。


 本人たちにとっては深刻な問題であっても、自然はそんなこととは関係なく存在しているものであり、平凡な日常を生きる人々にとっても、彼らの争いなど目に見えない限りは存在しないのと同じである……これは誰でも日常生活の中で感じたことがある感覚だと思うのだけど、この場面のメッセージを言葉にすれば、「人の営みの無常さ」ということになるだろうか。
 しかし、言葉では説明できない感覚を与えてくれるのが映画である。この映画から感じるそれは、独特の不思議な感覚を味合わせてくれるものになっているので、機会があれば観てほしいと思う。