本谷有希子『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』―「文化系女子」で読む本谷有希子



腑抜けども、悲しみの愛を見せろ

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ



生きてるだけで、愛

生きてるだけで、愛



 本谷有希子は、本人は『ダ・ヴィンチ』の対談で「自分が文化系女子かどうかはわからない」と言ってるにもかかわらず、いまや「文化系女子」の代名詞的存在になっているわけだけど、それって彼女に「隙」があるからじゃないかな、と思っている。「萌え」というのは「天然」で「隙がある」ところが萌えられるわけだから、本来、川上未映子が「自意識のバケモン」というような「本物の文化系女子」と「萌え」は相容れないわけだけど、本谷は、僕は『本谷有希子のオールナイトニッポン』も五、六回くらいだけど聞いたことがあるのでわかるのだけど、本人のキャラクターがなんだかのほほんとしているところがあるので、自意識もあるんだろうけど、あ、なんかかわいいな、付き合いたいな、と文化系男子に思わせる「隙」があるのだと思う。文化系男子だって、一日中ピリピリしていて、いつ怒り出すかわからないような未映子タイプの文化系女子と付き合うのは、謹んで御遠慮させて頂きたいはずだし(未映子に「あんた、私と付き合いなさいよ!」と言われたらそりゃ光栄だろうけど、おそらく彼は地獄を見ることになるであろうw)、「文化系女子萌え」というとき、想定されているのは本谷タイプの文化系女子なんだろうな、と思う。(御尊影はこちら。人物ポートレート本谷有希子さん@えるふぷらざ第10回「鶴屋南北戯曲賞」贈呈式(2007.03.15)@シアターガイド
 そんな、本人のキャラクター的には「隙」があるように見える本谷なのだけど、では、彼女はどんな作品を書いているのか。おそらく本領は「劇団、本谷有希子」の舞台にあるのだろうけど、演劇は今すぐ見るというわけにはいかないので、ということで、とりあえず『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』と『生きてるだけで、愛。』という二作の小説作品を読んでみたのだけど、これらは基本的に、自意識過剰なあまりに破滅の道しか歩めないような「電波系」の「イタイ女」、文化系女子であるかどうかはともかく、未映子が言うような「自意識のバケモン」的な若い女を描くものだった。
 特に化け物化しているのは、『腑抜けども〜』で描かれる和合姉妹のうち姉の方である澄迦であり、澄迦は「自分は特別な存在なのだ」という根拠のない思い込みからひたすら女優を目指しており、実際に美人ではあるのだけど、プライドが高すぎることからどこでもトラブルメーカーとなり、渡り歩く劇団という劇団から追い出されつづけ、ついに田舎の実家に戻ってきた、しかしまだ女優の夢を諦めているわけではない、という、これ以上ないほど「イタイ女」として造型されている。澄迦は、実家でも周囲に迷惑をかけており、妹を暴力で抑圧し、妻帯者である従兄とは関係をもち、彼の優しさに付け込んで「自分にとっておまえは特別な存在なのだ」と言うことを強要しつづける(映画版で、澄迦をサトエリが演じたというのはハマリ役の予感がするw)。
 しかし、重要なのは、『腑抜けども〜』にはもう一人違うタイプの「自意識をもつ若い女」が描かれていることであり、妹の女子高生清深は、「イタイ女」である姉から目が離せず、表面的には姉の暴力の被害者でありながら、腹の中では笑い転げていて、面白くてたまらず、姉を嘲笑しバカにすることに、最大の生き甲斐――というほどでもないな――「退屈な日常に一滴の潤いを与えてくれるちょっとした刺激」といったものを見出している。むろん他人を嘲笑うのが趣味だなんてのは、自分の人生を生きていないことの証拠であり、清深自身もそのことはわかっているし、わかっていながらやめられない、彼女もまた「ダメ人間」なのである。清深のあり方は2ちゃんねらー的であり、また霞っ子クラブ的でもある(霞っ子クラブは、裁判を傍聴し傍聴記をWeb上にアップする若い女性たちのグループで、「面白がってるだけ」「不謹慎」と各所で批判の対象になっている。彼女たちは実は意外に社会意識は高いようなのだけど、まああまりにもネーミングが秀逸すぎるので、誤解されるのは仕方がないと思う。「裁判を傍聴する若い女性の会」に改称すれば、誤解は解けるかもしれないが、世間的な注目度も下がってしまうはずだ)。清深もおそらく姉の生き方の「正直さ」を認めている。周囲のことなど気にせず、自分は特別なのだということを思い知らせるために、世間と妥協せずに生きていく生き方を、ある意味では認めていると思う。本当に女優になりたいのであれば、人の言うことに耳を貸し、演技指導を受け、周囲の人々に気遣い、野心を押し隠してうまく世渡りをしていくのが賢いやり方に決まってるのに、過剰すぎる自意識をコントロールできず、「電波系」の「イタイ女」としてしか生きられない姉の「正直さ」は、自分を押し隠して生きるのが賢いのだと思いつつ、そうしたあり方に退屈さを感じている清深にとって、ある種の羨望の対象でもあるはずなのだ。
 ここから先は、小説を作品を取り巻く状況・文脈に結びつけて読む読みになるのだけど、おそらく「文化系女子」には清深のようなタイプの女性もいるはずだ。自分自身も自意識が強く、世間なんてバカバカしいと思いながら、世間に立ち向かおうとするドン・キホーテ的人物に対しては理解できるからこそ冷たく、表面的には「普通」を装いながら、底意地が悪く、斜めの視線で世の中を見ており、「優しい人」などというものを信じない、そんなタイプ。『腑抜けども〜』は、自意識過剰な「電波系」の「イタイ女」を姉の澄迦に、その「自意識過剰なイタイ女」の部分をメタレベルから見ているもう一人の自分を妹の清深に振り分け、「文化系女子」の「自意識過剰な自分」と「自意識過剰な自分を見る自分」を二人の姉妹のキャラクターに分裂させた作品といえるはずだ。姉のことをマンガに描いてマンガ家になる清深は、本人はそんな風にはとても見えないのに、「自意識に振り回される電波な女」を好んで題材にとる本谷有希子の姿と重なるわけだけど、本谷と作中人物を重ねるとすれば、それは清深だけではなく、清深も澄迦も両方が本谷なのだと判断する方が正確だろうと思う。
 『生きてるだけで、愛。』の方は、澄迦と清深が一人の登場人物の中で融合し、というか、本来の「自意識過剰な文化系女子」の姿が語られているといえるのだろう、世間の価値観に合わせて生きようとするのだけど、「どうしてもダメ」で、自分でも普通の穏やかな生活がしたいと願っており、実際にいい人たちに囲まれた普通の穏やかな生活が手に入りかけるのだけど、その瞬間にやっぱりちゃぶ台をひっくり返してしまう女子の姿が描かれる。世間的な「普通」に対する彼女の「含羞」の感覚というのは、太宰治が「人間失格」などで描いたそれに近いのだけど、現代のクリエーターでいえば、なんといっても『臨死!!江古田ちゃん』の瀧波ユカリがこの辺りの感性を共有していて、『STUDIO VOICE』VOL.369/特集現在進行形コミック・ガイド!(INFAS、2006.9)では、本谷と瀧波がこんな会話を交わしている。



 本谷 ところで私の小説にも全裸女性が出てくるんですよ。私たちのヒロインは、なんで全裸なんですかね?
 瀧波 全裸になると、どんなかわいい表情しようが、結局同じみたいなところがある気がしますね。あと、全裸まで行くと隙がないでしょう。パンツを穿いてると、脱がす隙がある(笑)。本谷さんの小説の中で、下を向いたら陰毛が見えたっていうシーンがあるじゃないですか。陰毛を見ると、我に返りますよね?
 本谷 そうですね。陰毛って、力強い言葉ですよね。あたしも小説の三行目くらいで陰毛って書いてる。
 瀧波 陰毛って、気付け剤くらいの力がありますよ。家でごろごろアイドリングしながら全裸で悩んだりしてても、よいしょって体向きを変えると、途端に陰毛が見えて、「あ、自分!」みたいな。」
 本谷 リアルってことですよね。なんか分かります。


STUDIO VOICE』VOL.369/特集現在進行形コミック・ガイド!(INFAS、2006.9)



 陰毛トークで盛りあがる文化系女子二名w 「陰毛を見つめることで得る実存を自己の根底に据える女子」というのが世の中にはいて、それを「文化系女子」というらしいよ、という話なのだけど(『ダ・ヴィンチ』風にキャッチを付けるとすれば、「文化系女子は陰毛で我に返る」とか。『ダ・ヴィンチ』がこのキャッチを付けたら認めざるをえないと思うw)、世間的な「普通」に耐えられない感性というのは、例えば「陰毛」の力強さを支えにするものであるらしい(本当かよw)
 そして、このエントリの冒頭で、本谷は「隙」があるから「文化系女子萌え」とか言われるんじゃないか、と書いたわけだけれど、「全裸まで行くと隙がない」(@瀧波)という全裸ヒロインを作中に登場させてる本谷って、創作においては、「意外と隙がない」のかもしれないな、と思ったコトでありました。


霞っ子クラブ 娘たちの裁判傍聴記

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臨死!! 江古田ちゃん(1) (アフタヌーンKC)

臨死!! 江古田ちゃん(1) (アフタヌーンKC)





 以下、附記。
 『生きてるだけで、愛。』は、「新潮」2007年7月号で発表された第二十回三島由紀夫賞の候補作であり、選考委員の選評の俎上に挙げられている。Web上で「本谷は文壇で低い評価しかされていないのに、文化系女子の代表と祭り上げられているのはおかしい。三島賞の時の選評を見てみよ」(大意)という記事があったので、以下に『新潮』の選評から本谷への言及部分をすべて抜き書きする。
 なぜこういうことをするかというと、『ダ・ヴィンチ』や『AERA』の姿勢が軽薄であることは同意するが、文芸賞の選評などというものはとても信頼できるものではなく、例えば、「文化系女子」をめぐる状況という文脈の中で読めば、本谷の小説は十分興味深い作品として浮かび上がってくるわけで、文学作品の評価において「文壇の評価」なるものがすべてではないことを、一応確認しておきたいと思ったからだ。



 「生きてるだけで、愛。」の本谷有希子は演劇畑の人だが、これまた女流作家乃至現代演劇によって過去に多く描かれた、自我に振りまわされる女性をこれでもかとばかりに書いていて、それが文芸的だと思い込んでいるのではないか、現代の人格崩壊について心理学者や社会学者が大喜びで論じるであろうことを狙っているのではないかと勘ぐりたくなってしまう。確かに今、新聞が喜びそうな「社会現象」の作品に賞が与えられ、話題になることは多いのだが、少なくともこの賞を選考する立場としては、もはやそういう意図に後退して小説を書いている時代ではないと思う。テレビで拝見したがむろん作者は主人公と違って実に頭のいい人だからこの作品が私小説とはとても思えず、徹底して主人公をこんな人物にしたのも何かの思惑あってのことと思ってしまうのである。


 筒井康隆「今、二極分化の中で」



 筒井先生が「文化系女子トラップ」に引っかかっておられる。「頭のいい人」だから「思惑」があって書いているわけではなく、普通の人が登場する普通の小説を書くのは自意識や含羞が邪魔をして書けない、という事情なのは、今まで見てきた通り。また、本谷は、「自我に振りまわされる女性」を描くことが文芸的だと思い込んでるわけではなく、むしろ今文芸として受容されている一般的な恋愛小説から逃れようとしているのだと思う。そして、それはたしかに「過去に多く描かれた」凡庸な表現なのかもしれないが、文学作品は「今書かれている」ことの文脈の中で評価すべきだろう。



 本谷有希子氏の『生きてるだけで、愛。』は以前にも読んでいたが、今回あらためて再読して、もうこのての小説はご勘弁願いたいと思った。
 心の病を持つ主人公の「非はつねに自分を理解してくれない相手にある」という主張につきあるのはじつに疲れる。実際に自分や家族が同じ病気にかかったら、そんなことは言っていられないのであろうが、だからこそなにもわざわざ小説で読みたくはない。


 宮本輝「「新しさ」への疑い」



 そうですか、疲れましたかw 輝先生を疲れさせた本谷さんはたいへん悪い子ですねw 一応解説しておきますけど、これって批評とはいえないですから。



 「生きてるだけで、愛。」は自己嫌悪的なナルシズムに振り回されている女性が主人公で、血肉の通った人物造型がなされている。とりわけ最後の、やりきれない、純な切なさは印象的だ。テーマはタイトルで説明され尽くしている気がするが、作者の起爆力は本物だ。「病としてではない狂気」の凄みを期待したい。


 高樹のぶ子「批評小説」



 五人の選考委員の中で唯一絶讃している評。
 「作者の起爆力は本物だ」という評には同意するし、このblogで取り上げているのは、ぼくもそう思っているからこそ。



 話者は自分をエキセントリックだと思いたがっているようだが。雪の日に、マンションの屋上で全裸になって語りあうのは、エキセントリックでもなんでもない。頭が悪いだけである。表題も仰々しい。『コンビニ寄る?」にすべきだろう。
 自分になにか特別なところがある、自分は世間とはあいいれない、というもっとも凡庸かつ一般的な思いこみを、徹頭徹尾幼稚に書き込んでいっても、小説にはならない。冒頭から、話者は、自分がいかなるものであるか決め込んでいて、自己認識を揺がすことがない。その頑なさが、表現への敬虔さを滅ぼしている。


 福田和也「乏しさのロマンチシズム」



 これは一応批評になっていると思うのだけど、あくまで「話者の自己認識が揺らいでいくような小説こそが優れた作品なのだ」という福田の文芸観を基準にした批評であって、本谷が書いているのは、自分を変えたくても変えられない人間の無惨な道化さかげんなのだし、「表現への敬虔さ」が目指されているわけでもないだろう。「小説らしさ」が恥ずかしくてならず、身をよじって逃げ出そうとする自意識的な道化芸をこそ評価の対象とすべきで、その上で貶すなら構わないのだが。



 『生きてるだけで、愛。』……怒りと不満を満載した列車は暴走する。「自己嫌悪のナルシズム」と高樹委員は評したが、コトバのセンセーショナリズムもやがて失速する。現代演劇や現代美術には常に愚行のパフォーマンスで勝負する人々が一定の割合で存在する。彼らはギャグを畳み掛けるサービス精神には溢れているが、その去り際は物悲しい。抗鬱剤の効き目が薄れてきた時のあの喉の渇き、疲労感の先の先まで見通せば、きっと現在の絶望は消えるだろう。絶望もギャグもない未踏の境地へ踏み出すことを個人的には大いに期待している。


 島田雅彦ドン・キホーテは誰か?」



 本谷作品の自意識性・道化性をよく理解した上での助言。島田自身が80年代を代表する道化的身ぶりの作家だったから、おそらく先輩としてのアドバイスなのだろう。絶讃の高樹評より、島田評の方が的確だと思う。


新潮 2007年 07月号 [雑誌]

新潮 2007年 07月号 [雑誌]



 あー、しかし、「本谷有希子、好きなんですか?」って言われそうだな、この記事。たしかにここまで書くと「愛」だよなー。でも別にファンとかではないんですよ、本当にw