伊坂幸太郎『重力ピエロ』



重力ピエロ

重力ピエロ



 ※ このエントリには、『重力ピエロ』のネタばれがあります。未読の方は注意してください。


 伊坂幸太郎は変な作家だ。あるいは、変な作家だったというべきか。
 思えば、デビュー作『オーデュボンの祈り』(2000)は掛け値なしに変な小説だった。なにしろ目が覚めたら江戸時代から鎖国を続ける見知らぬ島、島には未来を予知する喋る案山子がいて、しかも案山子が殺されて、それがこの小説におけるミステリとしての「謎」だというのだから、相当に変わっている。結末でなんだか大団円になっていくのも「本気か?」という感じ。人を食ったようなハッピーエンドなとぼけた味わいがあって、「なんなんだろうこの小説は?」と思わせる不思議な読書体験を与えてくれた作品だった。
 第二作『ラッシュライフ』(2002)もまた確信犯的に平板な「悪」の描き方がなされていて、一般的な「リアルな小説」に慣れた読者には批判されたりもしたが、そのことによって童話めいた読後感を持たせていたと思う。このあたりまでは、伊坂は、読者に「これって所詮作り話だよ」という、作品全体のフィクショナルな志向性を示唆するサインを入れることに意識的だったと思うのだ。


 ところが、伊坂はしだいにそういうサインを作中に入れることはなくなっていく。『グラスホッパー』(2004)の殺し屋、『死神の精度』(2005)の死神、『魔王』(2005)の超能力者、『終末のフール』(2006)の間近に迫った地球滅亡など、「等身大のリアリティー」を感じさせる現代における平均的な若者たちの日常生活の描写の「普通さ」と、そうした「普通さ」にはそぐわないファンタスティック(=フィクショナル・「お話」的)な道具立てのギャップを利用している点では、『オーデュボンの祈り』となんら変わりはないはずなのに、これらの作品には『オーデュボンの祈り』や『ラッシュライフ』にはあった、「本来異質な素材を組み合わせて作られているのだ」という齟齬感、ぎくしゃくした感じがなくなっているような気がするのだ。
 それは本来異質なもの同士を組み合わせる際の「繋ぎ」の技術が巧みになり、洗練され、違和感を感じさせなくなったということなのかもしれないが、初期の「ぎくしゃくした感じ」にこそ面白さを感じていた読者からすれば、なんだか伊坂が普通の作家になってしまったようでつまらないのだ。(ちなみに、『死神の精度』はえんどコイチの『死神くん』、『魔王』はスティーヴン・キング『デッド・ゾーン』の設定をほとんどそのまま踏まえているし、『アヒルと鴨のコインロッカー』(2003)の古書店襲撃は村上春樹パン屋再襲撃」を引用している。盗用うんぬんではなく、伊坂はDJ的な手法を身上とする作家なのだと思うし、ならば先行作品と比較した批評が必要なはずだ。)


 もちろん、洗練は伊坂がより広範な読者を獲得するためには絶対に必要なものだったと思う。いつまでも案山子が喋る話では本屋大賞は狙えない。けれど、その結果として、異質な素材を組み合わせる「繋ぎ」のぎくしゃくした感じというのとはまったく別の意味での違和感が、伊坂作品には生じはじめたのではないかと思う。
 その最初の徴候は『重力ピエロ』(2003)だったように思う。この先は、『重力ピエロ』のストーリーに触れるので未読の方は注意してほしいのだけど、この作品は伊坂の「作り込み」の技術の集大成のような作品で、作中に登場するあらゆる要素が「遺伝子」に収斂されていく。それはもう圧巻というほかないのだけど、この「作り込み」をストーリー(それも多くの読者を獲得するための「いい話」的なストーリー)の枠組みに回収する際に伊坂が用意したのは「家族の絆」というストーリーだった。つまり、伊坂は遺伝子的には家族ではないけれど、もうずっと一緒に暮らしているので彼は家族の一員なのだ、というなんともべタなストーリーを用意するのだけど、それって読者にははじめからわかりきっている結論ではないだろうか。
 作中で語り手兼主人公は、「遺伝子」という神話にとらわれた発想を批判しており、最終的には「遺伝子なんか糞食らえ」という結論に到達する。遺伝子なんて家族の絆の前では取るに足らないというわけだ。しかしこの作品では「遺伝子」という神話を否定するために、「家族の絆」というこれだってもう一つの神話にすぎないものを、こちらは無批判に賞賛する。作者はそれに説得力を持たせるために、とびきり魅力的な家族を腕によりを掛けて用意してみせるのだけど、所詮それは「嘘」にすぎない。たしかに血縁関係にあるには違いない家族と憎しみ合っている読者は、いったいどうすればいいのだろう。知的に捻くれた構成をもつ伊坂作品を読もうなんて読者は「家族の絆」なんてものは無条件には信じていないはずだし、遺伝子神話なんてなおさら信じてはいないはずだ。
 したがって、読者がこの作品を楽しむためには、まず遺伝子神話という嘘を信じる「フリ」をしつつ、後には「家族の絆」という嘘を信じる「フリ」をしなければならない。少なくともそういう進路で展開する語り手の思考に付き合わなければならない。それがとても疲れるのだ。少なくとも僕はとても白々しい気分でこの小説を読み終えたし、そういう気分の中では「作り込み」のすごさを(認めるけれど)手ばなしで賞賛する気にはなれなかった。


 けれど、『重力ピエロ』はとても評価が高いし、伊坂が多くの読者を獲得するきっかけになったとされる作品だ。ならば、多くの読者は「家族の絆」の物語を素直に受け止めたと思われるわけで、特に違和感は感じなかったことになる。それは伊坂が一般読者が喜ぶ洗練された作品を書けるようになったという意味ではいいことだと思うのだけど、一方で、絶対に伊坂は「家族の絆」なんて物語は信じていないはずだとも思う。証拠はこの作品において最も手のかかっているポイントが遺伝子繋がりの「作り込み」だからで、「家族の絆」の物語はそうした「作り込み」をストーリーに回収するために後から上乗せされた底の浅いものにすぎない(『タイタニック』におけるラブロマンスのようなものだ)。
 したがって、傾向として分ければ、『重力ピエロ』とは、多くの読者(=読書経験の浅い読者)は「家族の絆」の物語を「いい話」として読み、読書経験の多い読者は「作り込み」のすごさを愉しむ作品ということになるのだけど、僕はこういう戦略がいいことだとはまったく思わない。00年代の出版界は、片山恭一『世界の中心で、愛を叫ぶ』(2001)以降、「泣き」「いい話」をセールスポイントとした作品が数多く出版され、また実際に売れているわけだけど、本来シニカルな人間観をもっているはずの作家たちまでが、メガヒットを生み出すべく自分が信じてもいない「いい話」を一般読者向けに執筆しつつ、自分がそれを信じていないことを「わかる人にはわかる」ような書き方までしている(それほど一部の作家たちは洗練されている)というのは、もしかしたら「頽廃」という言葉こそが最もふさわしい事態なのではないかと思うからだ。


 伊坂についていえば、『オーデュボンの祈り』にあった「奇妙さ」と「人の良さ」がともに後の作品にも引き継がれながら、後者が意外とネタというわけでもなくて、「奇妙」な設定を額縁として残しつつ、「いい話」性が前面に出てくるようになって、初期の「ぎくしゃくした感じ」は失われていったような気がしている。『終末のフール』などはあまりにもひねりのない「いい話」ばかりなので、ちょっと驚いたくらいだ。
 伊坂を評する言葉として「オフビート」(例:コーエン兄弟の映画群)という言葉もよく使われたけれど、「オフビート」な感覚もまた洗練されていくことで本来の味からは変質してしまったような気がするし、『砂漠』(2005)などは「オフビート」とは無縁の作品だろう。ここまで売れっ子作家になってしまった以上、伊坂は、題材的には幅を広げつつ、作風としては「泣き」「いい話」の要素を前面に押し出した洗練された作品を書いていくほかないだろうが、たまにはとびきり奇妙で、変としか言いようがないような作品を発表して、読者を唖然とさせてほしいものだと願っている。