大塚英志『物語消滅論―キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』





 現在の文学をめぐる状況が世界情勢を踏まえた上で語られた本であり、取り上げられている問題は多岐にわたるのだけど、今回は特に注意を引かれた話題を一点だけ短く取り上げる。

 気になったのは、佐世保市小6女児殺害事件についての話の中で語られた、殺害した側の少女の愛読書が『バトル・ロワイヤル』であり、殺害された側の少女の愛読書は『キノの旅』だったというエピソードだ。大塚の議論はこうだ。現代思想の議論の中では、もはや近代的な意味での統合された「人格」や「私」などというものはなく、状況に応じてそのときどきに使い分ける「キャラ」があるだけだ。たとえ攻撃されたとしても、それは「キャラ」に対してのものなのだから、もはや彼らの「内面」が傷つくことなどはないのだと言われている。しかし現実にはこうして「内面」が傷ついたことを発端とした殺し合いが起こっている以上は、やはり「私」や「内面」は現にあるのだ。近代以降、基本的には文学がそうした傷つきやすい「私」や「内面」を引き受けてきたのだけど、いまや文学はそうした装置としては機能しておらず、代わりをライトノベルが引き受けているという状況がある。しかし結果的には、少なくともこの事件については、ライトノベルは少女たちの「内面」を救えなかったことになる。殺害した側の少女はいま少年院で「赤毛のアン」を読んでいるという。文学は少女たちに届くものへと立ち戻らなければならない――。

 大塚は詳しくは説明していないのだけれど、僕が驚いたのは、少女たちが、事件が起こってみれば、確かに少女たちにとって必要なものだったと思われるような本を選んでいることだ。なぜって、『キノの旅』は、治安が不安定化した世界を一人旅する主人公が、身につけた銃の腕で身を守るという物語であり、『バトル・ロワイヤル』は、言うまでもなく、自分の身を守るために疑心暗鬼の中で同級生を「殺される前に殺す」物語だからだ。物語は、とりわけライトノベルのようなジャンルは時代を映す文芸ジャンルだから、殺伐とした時代に殺伐とした物語が書かれるのは偶然ではないのかもしれない。しかし少女たちが自分にとって必要な本を選ぶ嗅覚をもっていたということ、そしてそうした嗅覚を持っていたにもかかわらず、結局は状況に呑み込まれてしまったことは、どうしようもなく痛ましいことだと思ったのだ。