森見登美彦『太陽の塔』



太陽の塔

太陽の塔



 『夜は短し歩けよ乙女』で一般にも存在が知られるようになった作家森見登美彦のデビュー作で、第15回日本ファンタジーノベル大賞受賞作。

 内容を端的にいえば、京大の理系学生を中心とした非モテ系男子たちの冴えない日常を描いた小説であり、まず語り手にしてからが、ふられた女の子に執着して、学業そっちのけで「水尾さん研究」と称した、実のところはれっきとしたストーカー行為を働いており、仔細は省くけれど、女の子に相手にされていないストーカー男同士のいがみ合いであるとか、実は心優しいのでもてるのだけれど女の子に好きになられるのが怖くてならず、もてないよう自己防衛している男であるとか、遠くから見ているだけで癒されるなあと思って憧れてそれで満足していた男の子が、相手の女性に視線に気づかれて傷つくとか、少しでも気の弱いところがある男だったら多少なりとも心当たりがあるようなエピソードがずらりと並んでいる。「もてない」という厳正にして端的な事実はただもうそれだけで圧倒的に悲しい悲喜劇であり、京大生なんてみなエリートで前途洋々たるもののはずなのだけど、論理的な思考でもって冷静に自己を客観視できる知性をもっているにもかかわらず、「もてない」という厳正なる事実の前に打ちひしがれる気弱な男たちの悲しさが、「泣き笑い」めいたペーソスを感じさせて、読んでいると、しようがねえなあ、と一方で思いつつも、切なく儚い気持ちになる。本当にただただ悲しいのだ。

 悲しさに輪をかけているのは、これは大事なポイントだと思うのだけど、この作品で描かれる男たちはオタクですらないということだ。オタクというのは、かつては単に蔑称だったが、いまや世間的な認知を得て、どこに行けば仲間がいるかというのもわかっている。岡田斗志夫がかつて強調していたように、オタクは仲間同士で濃密なコミュニケーションを日々交わしているむしろコミュニケーション能力に長けた人種だとも言えるのであって、オタクであることはむしろ、ともすれば孤独になりがちな男の子にとって自己救済の道になりうるものなのだ。ところが、この作品に出てくる男たちはそうではなくて、オタクにさえなれず、同じ趣味をもつ仲間をもたず、それゆえに徹底的に無力で、寄る辺ない存在なのである。で、実はこういう類の男というのは、もしかしたらオタクの男よりもはるかに多いのかもしれなくて、そういう男たちはどんな人生を歩んでいくのかというと、おそらくそこには虚無的なまでに空漠とした「淋しさ」が広がっているのではないかと容易に想像されるわけで、であれば逆算的に、「オタク」というカテゴリーがいかに男たちにとって必要なものだったかも見えてくる。

 ところで、この種の味わいをもった文学作品というのは、現在では一ジャンルを築いているとさえいえるほど、数多く出版されしかもその種のものを書く優れた作家はみな一般層にも支持を得ている。無力で、幸薄い境遇にあるのだけど、すでにある種の諦念を抱くほどに諦めの境地に達しており、人生なり社会なり他者なりに対する期待値が圧倒的に低い。そんな人々を描く作家には、おそらく火付け役として川上弘美がいて、川上の『溺レる』などを読むと、付き合う男のレベルが、居酒屋で知り合った無職の中年男であったりとか、ことごとく、かつ、いちじるしく低い。しかもそんな男に粗略に扱われても絶対に自分からは別れを切り出さない女を川上は描く。桜庭一樹などもおそらく川上を意識的に念頭に置きつつこういうタイプの女を描くことがあるし(『少女七竈と七人の可愛そうな大人』など)、森見の『夜は短し歩けよ乙女』のヒロインもこの種の雰囲気を漂わせた女性だ。この種の人物造形のルーツは明らかで、戦前の作家尾崎翠は、「第七官界彷徨」で、男女ともにみな片想いに敗れてしくしく泣いているような、現実の社会で生きていく力のない社会不適応者ばかりが登場する小説を書いている。森見の新しさはひとえに、女性作家が用いてきた、この種の気弱な女性をユーモアとペーソスでくるんで表象するという手法を、男性作家が男性主人公でやったことにかかっている。実際のところ、『太陽の塔』は、文体にせよ、片恋に敗れる気弱な人々の無力さという主題にせよ、全体的な雰囲気にせよ、「第七官界彷徨」によく似ているのだ。

 僕もまたむろんこの種の気弱な人種であり、「至つて押しの弱い者ども」(尾崎翠)であって、この系譜に属する作品群はことごとく好きでもあり、評価もしているのだけど、とはいえこうもこれらの作品群が持て囃される状況が到来してみると、少しばかりは「それでいいのか?」という反省が起きないわけでもない。というのは、これらの小説って、自分の徹底的な無力さを潔く認めるという点では容赦のない自己認識をしているともいえるのだけど、一方ではやはり、無力な自分を慰めて肯定してほしいという、読者のナルシスティックな欲望に応える作品でもあるからだ。むろん尾崎の作品にも、森見の作品にも、腐敗したナルシズムの匂いはない。だから僕は「第七官界彷徨」も『太陽の塔』も高く評価するし、ナルシズムの匂いがしないところが多くの読者に支持される理由なのだろうとも思うのだけど、ひょっとしたら安易な心地よさを求めて、この種の小説を読みたいと願う読者が数多く存在し、それに応える作品が数多く刊行されているのかもしれない今の状況に対しては、自戒を念を感じつつ、危ういものを感じてしまうのだ。