庵野秀明総監督『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』



 旧テレビ・オリジナル版の第壱話から第伍話までとまったく同じストーリーを、絵だけ新しくしたものらしい、という程度の事前情報で映画館まで足を運んだのだけど、なんだ、全然違うじゃないか、というのが、次回予告まで含めて、最後まで見た上で得た感触だった。それはそのはずで、同じことを二回やる必要などどこにもないのだし、やるなら違うことをやるはずだ。庵野秀明が試行錯誤の末にエヴァに戻ってきたのは確かだし、結局のところ庵野にはエヴァしかないのだろうとは思う。気が早い話だが、今回の新劇場版が終わってまた二十年後くらいに、三度目のエヴァを作りはじめてもおかしくないくらいだとそれは思う。けれど、さすがに庵野だってまったく同じものを二回作るはずはない。確かに、映画のストーリーはテレビ・オリジナル版を完全になぞったものなわけだし、とりあえず概略だけ説明するなら、ストーリーは同じで絵だけ違う映画と言うしかないだろう。しかし、実際に映画を見てみれば、テレビ・オリジナル版とはまったく別物として作られていることは明らかだ。

 むろんエヴァが一筋縄でいくわけもなく、そんな単純な話ではないはずなのだけど、違いを端的にいえば、新劇場版は、旧版のような「内面のドラマ」ではなく、戦闘を中心にした「正統なロボットアニメ」になっていると思う。進化したアニメーションの技術が投入された結果、第三新東京市の戦闘都市としての姿はよりリアルに描かれ、正八面体の使徒ラミエルは多様な変形パターンを示して観客を魅了し、戦闘シーンは圧倒的に迫力を増した。日常の描写においてもキャラクターの造形はシャープになり、テレビ・オリジナル版の丸みを帯びたかわいらしさは目減りして、それに伴う形で、登場人物同士のユーモアを含んだやりとりが削除されつつ、例えば初号機がラミエルの攻撃を受け、シンジが生命の危機に晒されるシーンなどで、ミサトもまたシンジの生命よりエヴァを、組織の都合を優先する人間なのだという冷たさであったりとか、結局はシンジを利用する計算で動いている大人なのだといったこと、人間関係における冷たさの部分がより強調されていたように思う。テレビ・オリジナル版では、前半の少女マンガ的な〈あたたかさ・柔らかさ〉から、後半では青年マンガ的な〈過酷さ・冷たさ〉にシフトし、結末では過酷な状況の中で少年の柔らかな自我が破綻し崩壊していくドラマが描かれたわけだが、新劇場版では最初から〈過酷さ〉と〈冷たさ〉が支配的であり、おそらく今後もシンジの内面のドラマが説得的に描かれたテレビ・オリジナル版のような展開には、とうていなりそうもないのだ。

 では、どんな映画なのかといえば、これはもう断然、カッコいい映画だ、ということになるだろうと思う。今までエヴァ(テレビ・オリジナル版)を見たことがないけれども新劇場版を見に行く、という中高生がどれだけいるかわからないけれど、彼らはきっと「カッコいい映画だ」という感想を抱くのではないか。この路線が結果的に成功に結びつくのかどうかはわからない。「カッコいい映画だ」ということは「男の子の映画だ」ということなのだけど、今は〈男の子〉が『ハルヒ』や『らき☆すた』のような少女マンガ的な作品にハマり、〈女の子〉が『ガンダムSEED』のような従来男の子向けとされてきた作品にハマる時代だからだ。だからおそらく新劇場版四部作は女の子(腐女子を含む)に人気が出るんじゃないかなという予感も少しする。カヲル君(=アスラン・ともに声優は石田彰)の登場回数も前よりは多そうだし。ただ、〈男の子〉の思春期的な内面の葛藤のドラマを主軸に据えないという新劇場版のスタンスはやはり圧倒的に正しいわけで、つまりこれは「おまえら、いつまで補完されたがってるのか」という話だと思うのだ。庵野はもう補完を必要としていないし、十年前にエヴァに癒しを求めたファンたちだって、本当はもう補完なんて必要としていない。そのことに気づけ。新劇場版の言わんとしているのは、つまりそういうことなのではないかと思う。