台湾6/砂糖菓子の弾丸と実弾



 初音ミク「恋とマシンガン」(from フリッパーズギター



 台湾について。今回で最後です。
 今回のシンポジウムで、その後もずっと印象に残っている発表のひとつに、台湾の院生の方による桜庭一樹砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」というライトノベルの小説についての発表があります。


 この小説のストーリーは、語り手の少女が、自分は人魚だとかなんとか痛い嘘ばかりついてる転校生の少女と出会って、うんざりしながらもやがて本当に友だちになっていき、彼女の運命を見届ける、というものです。それで、タイトルにある「砂糖菓子の弾丸」というのは、嘘つきの少女にとって嘘をつく行為は、過酷な抑圧状況にある少女が、過酷な現実に対抗するために、そうした現実と必死に戦うための武器だったのだ、という意味なんですね。
 しかし、武器はまったく相手に通用しなかった。それは少女が子どもだからで、武器と言っても子どもっぽいおもちゃの武器、砂糖菓子の弾丸にすぎなかった。この小説は、砂糖菓子の弾丸なんかじゃなくて、現実と戦うための実弾が欲しい、つまり大人になりたいということ、成熟をテーマとしている小説なわけです。


 実は、この発表の前に、榊祐一先生の大塚英志についての発表があったのですが、そこでは、大塚が90年代の評論において、現代社会における成熟の不可能性を知悉しつつ、熱心に成熟の必要性を説いていた、その理由を説明されていたんですね。
 しかし、台湾の院生の方の発表では、桜庭はライトノベルにおいて少女の成熟を描こうとしたし、読者は桜庭の作品を読むことで成熟する、と論じているようだったので、ちょっと疑問を感じたんです。桜庭は「少女」にこだわっている作家ですが、桜庭の他の作品を読んでも、やはり少女たちは成熟の不可能性の中にあるように思えるし、直木賞受賞作「私の男」に至っては、明確に成熟拒否の小説になっている。


 大塚英志は、『物語論で読む村上春樹宮崎駿―構造しかない日本』(角川oneテーマ21、2009年7月)で、ジブリアニメでは、男性が成熟できない/大人になれない存在として描かれる一方で、少女はたくましく自立していく存在として、成長が描かれていくと論じている。もちろん、これはジブリアニメに限らず、小説からアニメまでを含む現在のフィクション、男性作家が作るストーリーの多くはそうなっている。
 女性作家である桜庭が少女を主人公とする小説を書くのは、そうした男性作家が語る少女像に対するカウンターを書こうとしているところがあって、すなわち、少女だって成熟なんてできないのだ、ということですね。「したくてもできない」というのと(砂糖菓子)、「したくない」というのと(私の男)、その辺りはグラディエーションがあると思うんですけど、現代の女性もまた、成熟できない/大人の女性にはなれない、ましてや男性の癒し手としての「母」になんてなれないしなりたくもないという認識があるからこそ、桜庭は少女にこだわり続けていると思うんですね。


 もちろん、「砂糖菓子」にしても、少女が成熟しようとする姿を描いていることは確かなんですけど、同時に成熟の不可能性の認識もまた語られているとぼくは思っているんですよね。砂糖菓子の弾丸なんかじゃなく、実弾を撃てるようになりたいと語り手の少女は願って、しかし、実弾を撃てるようになる(成熟する)手前で、小説は終わっているわけですからね。
 語り手の少女のひきこもりのお兄さんが、結末で自衛隊に入隊して「実弾を撃てる」ようになっているというのは、兄は一足先に成熟してしまった存在として語られているとみなすべきなのか、社会人になったと言ってもひきこもり時代とあまり変わらないまま社会人になったのであって、その境界なんて曖昧なものなんだよ、という現代社会における成熟の不可能性が語られているとみなすべきなのか、解釈が分かれるところですよね。物理的に事実として、実弾を撃ってる(自衛隊に入っちゃった)というのはアイロニーが効いているところで、この辺り桜庭の小説家としてしたたかなところですね。


 で、ここからなぜこの発表が「個人的に印象に残ったか」について説明しようと思うんですけど、ぼくは大学に復帰してから飲み会ではずっとそうなんですけど、今回のシンポジウムの懇親会でも、5年もひきこもりをやっていてどうとか、「過剰な語り」「痛い語り」をやってきたんですね。それはぼくの経歴であれば、そんな風に自虐的に過剰な語りでもしなければやってられないということがあるんですけど、でも、これって、「砂糖菓子」の少女と同じなんですよね。思うようにいかない現実に対抗するために過剰な語りによって、必死に自分をアピールするっていう。
 でも、そんなのは「砂糖菓子の弾丸」なわけで、全然ダメなわけです。現実の社会で戦っていくための武器にはなりえない。同情は買えるだろう、しかし評価はしてもらえない。大人として、対等な存在として認めてもらうことはできない。ならば、そういうことはもうやめるべきだし、「実弾」で勝負すべきだ。「砂糖菓子」の発表では、そういうことに気づかせてもらった気がしたんですね。


 まあ、blogもたいがい子どもっぽい記述も多いし、弱音もストレートに書いているんですけど、それこそ成熟の不可能性の時代なわけですからね。飲み会にせよ、blogにせよ、多少意識して「成熟」に向かう方向づけは試みつつ、結局いまの自分にとって自然なようにしか振る舞えないわけですから、急に雰囲気が変わることはないと思うんですけどね。


 もう一つ、これはぼくの直感なのですが、台湾の学生たちとサブカルチャーや政治的な状況について話をしている中で、台湾もまた日本と同様に「大人になれない」国のような気がしたんですね。日本と同様に、歴史的・政治的な社会状況が、台湾の若者たちが「大人になれない」国にしているような気がしたんです。桜庭は「ブルースカイ」ではタイを「大人になれない」国として書いているのですが、台湾もそうだと思うんですね。これはおそらくぼくが台湾の学生たちに感じている共感の感情から感じていることにすぎないかもしれないのですが、それならそれでかまわないので、そのことを断りつつ、書いておきたいと思います。
 ただ、台湾は日本と違って、一年の兵役があるらしいんですよね。「砂糖菓子」のお兄さんが自衛隊に入隊したように、台湾の若者たちは兵役によって、大人になるのかもしれない。そこは日本の若者とは違うところですね。




砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない (富士見ミステリー文庫)

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砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない―A Lollypop or A Bullet

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