「グラン・トリノ」メモ



 忘れないうちに、「グラン・トリノ」のメモを書いておきます。
 未見の方は、読まないようお気をつけください。


・ウォルト・コワルスキー(以下、ウォルト)がポーチの椅子に腰掛けているのは、西部劇のパロディー。加藤幹郎『映画ジャンル論』の西部劇論に西部劇とポーチの関係を指摘した論文あり。
 ポーチに腰かける保安官は「秩序」「文明」の側にあり、保安官が睥睨する荒野は「無秩序」な未開の土地として分節化されているとする。ウォルトもまたポーチに腰かけ、町の治安の悪化を嘆いている(が、保安官とは異なり秩序を回復させることはできずにいる)。


・ウォルトは、家に星条旗を掲げている。気になる小道具は、他にもいろいろある。たとえば、ライター。


・ウォルトがはからずもモン族の英雄となり、捧げ物を捧げられ、つまり神となるのは、ジャングルの奥地で白人が現地人の「神」と化しているベトナム戦争映画の古典『地獄の黙示録』のパロディー。


・モン族は、ベトナム戦争アメリカに味方したために、もともとの土地を追われることになった。ウォルトは朝鮮戦争の体験をトラウマとしている人物だから、この映画ではアメリカの戦争の歴史が踏まえられている。


・ウォルトがタオに伝授する「男らしい話し方」の下品さは、ベトナム戦争映画の古典『フルメタル・ジャケット』を引き継いでいる。


・タオの「男ばかりの職場でケツまでクタクタだぜ」という挨拶にウォルトとマーティンが参っているのは、ホモネタをひっかけたダブルミーニングになってるから。
 ちなみに、字幕は戸田奈津子


・ウォルトとタオの関係において、お金のことは意外としっかりきっちりしようとしている。だからこそ、盗みや償いの労働、「貸し」や「借り」、チップの上乗せ、贈与といった人間の信頼関係に基づく授受が際立つ。
 この映画では、物やその他諸々の授受、すなわち人から人に何かを与えることや受け取ることがドラマ作りの鍵になっているから、細かく注意して見てみること。一例を挙げれば、ラスト近くでマーティンに20ドル渡す(10ドル上乗せしている)のは、ウォルトなりのマーティンへの友情への感謝の証。


・ウォルト自身はポーランド系。床屋のマーティンはイタリア系。アメリカはもともと移民によって形成された国であるが、WASPではなく、階層的にはWASPより下位であり、ウォルトもマーティンも底辺の仕事に就いている。


・映画の中でウォルトの懺悔が問題になるが、プロテスタントに懺悔はないので、ヤノヴィッチ神父はカトリック(そもそもカトリックは神父で、プロテスタントは牧師)。また、作中ウォルトは「ルターには困ったもんだ」と言っている。
 ちなみに、ヤノヴィッチ神父は、名前からして東欧系。


・映画の舞台は、デトロイト。ウォルトはフォードで自動車修理工として働いていた。
 デトロイトを舞台にした映画には、『ロボコップ』や『8マイル』、『ヴァージン・スーサイズ』、日本のマンガの元ネタにもなった『デトロイト・ロック・シティ』などがある。『ヴァージン・スーサイズ』の時代設定は1970年代で、この映画は白人中産階級の若者たちの青春と町の没落を描いているから、『グラン・トリノ』との対比は興味深い。『ヴァージン〜』で両親は娘たちに「50年代的なモラル」を押しつけるが、『グラン〜』ではそれは不可能になっている。


アメリカという移民の国で、アングロサクソン系、アイリッシュ系、イタリア系、ヒスパニック系、東欧系、メキシコ系、アフリカ系、イスラム系、アジア系といった人々が、それぞれどのような地域で、どのような階層を形成し、どのような労働に従事しているか、また、現在それがどのように推移しているかについては、多くの本が出ているはずなので、この映画の理解を深めるには読む必要あり。
 『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年)の女性ボクサー、マギー・フィッツジェラルドアイリッシュ系の移民で、貧困に苦しんでおり、トレーラーハウスで成長している。ボクサーとして成功したマギーは、家族に郊外の家をプレゼントする。移民と貧困の問題。


・映画を見る限りでは、アメリカの「郊外」は、非白人、特にアジア系に浸食されつつように見える。ウォルトは、新たな隣人となったモン族の家族の老婆に、「イエローは出て行け」と言うが、「白人はみんな出て行ったのに、一人だけ残っているだなんて、おまえこそ出て行け」と言い返される。
 また、ウォルトが病院に行った際、待合室に白人の姿はなく、イスラム系の女性がおり、そして医師は白人男性から「チョウ」という中国系の女性へと変わっている。


・モン族の不良少年たちは、仕事がなさそうに見える。タオは、ウォルトに仕事の世話をしてもらうが、それはウォルトの口利きがあったから。普通に仕事を探している限りでは、職にありつけないだろうことは、ウォルトとタオのやりとりからもうかがわれる。
 すなわち、モン族の不良少年たちはアジア系の若者たちが職につけないというアメリカ社会の差別の犠牲者であり、だからこそ犯罪者グループ化している。彼らはタオが仕事を得たことに嫉妬している。


・言葉の問題。モン族の老人たちが英語を話せず、スーが通訳している。モン族はベトナム戦争の前後に移民したわけだから、3〜50代で移民した老人たちは英語を話せない。若者たちはアメリカ生まれだから話せる。ウォルトと老婆の非言語的コミュニケーションの推移はおもしろい。


・西部劇というジャンルの問題。イーストウッドは、イタリア製西部劇であるマカロニ・ウェスタン(『荒野の用心棒』1964年)でスターになり、西部劇で映画監督として成功し(『荒野のストレンジャー』1973年、『ペイルライダー』1985年)、そして『許されざる者』(1992年)でオスカーを取った。『グラン・トリノ』は、「イエロー」がアメリカ大陸を白人の手からいわば取り返す映画であり、その意味では、西部劇の裏返しといえる。
 しかし、一方で、白人がアジア系の「悪漢」を退治する物語である点は変わらないわけだから、西部劇の構造を反復しているという批判はありえる。イーストウッドとしては、西部劇という映画ジャンルの核となる部分を引き継ぎつつ、終わらせるという意識で、映画を作っているように思われる。


・暴力の問題。自衛権。「自分の身は自分で守る」という意識は、イーストウッドフィルモグラフィーの中で一貫している。『許されざる者』はガンコントロールの問題を主題としているし(前掲加藤論文)、『ミリオンダラー・ベイビー』は、「自分の身を守れ」という教えを貫けなかった女性ボクサーの悲劇を描く。
 しかし、暴力は暴力の連鎖を生む。ウォルトは、タオの家が銃撃を受け、スーが暴力にさらされたとき、「自分のせいか?」と悩む。ウォルトが暴力に対して暴力で対抗したことによって、事態は悪化したのではないか。一面ではそれはその通りであり、ウォルトは、戦争の際に犯した「罪」の贖罪のためにタオたちを「守る」ことをいわば利用している面もある。ウォルトは、「やつらがいる限り、タオとスーに安息はない」と自己を正当化するが、この認識ははたして妥当なのか?
 ウォルトが介入することによって事態が悪化、もしくは展開が速度を増した面は確実にあるが、でははたしてウォルトが関与しなかった場合にもやはり、「やつらがいる限り、タオとスーに安息はない」という事態に立ち至っていたのか? ウォルトはもっとうまく問題解決の手立てを打てたのではないか(たとえば、どこかの時点で警察を介入させること)。
 ウォルトの最後の選択は、暴力(また、暴力の連鎖)を否定したことになるのか? おそらく単純には言えない。あの場面には、ウォルトの贖罪意識であるとか、西部劇ジャンルの引き継ぎや観客の「期待の地平」の裏切りであるとか、考慮すべき文脈は複数あるはず。
 しかし、では、暴力の問題にどのような決着がつけられているのか?


・余命の問題。おそらく余命数ヶ月であることも、ウォルトの選択の条件になっている。裵々を考慮に入れたとき、はたしてウォルトは単純に「英雄」と言えるか。
 ちなみに、痰を吐く相手の拒絶を意味する行為は、血痰を吐くこと(余命いくばくもないこと)の伏線になっている。煙草も。


・父(ウォルト)はフォードで自動車を修理し、息子は日本車をセールスする仕事に就いているという設定。(名車グラン・トリノの位置との関係は?)


・コミュニケーションの問題。相手に対等な存在として認められるための口の利き方、態度の習得。タオがウォルトを「呑む」場面の面白さ。
 ウォルトの「唸り」。基本的には不本意の表現だが、ときに唸りつつ相手を認めている場合がある。


・犬。(死んだ)妻。信頼できる存在が犬と妻だけなんて江藤淳のようだ。
 最初、家族よりもモン族の連中の方が親しみを持てると言っていることには留保が必要。この時点では、底が浅いものにすぎないようにも思える。(本質的にはどう捉えられるだろうか?)


・家族。特に孫娘。ケータイは「圏外」。ウォルトは、家の中に人を入れることにナーバス。庭の境界にも(最初は)ナーバス。
 また、呼ばれ方にもナーバス(特にヤノヴィッチ神父との関係において強調)。「信頼関係の構築」のプロットに利用。


 まあ、こんなところかな。
 ケツまでクタクタなので、この辺で。