話すことは歌うこと



 最近、話すことは、書くことや考えることより、歌うことに近いんじゃないか、という気がしている。ぼくはゼミの発表でもよく言葉に詰まるのだけど、先日の発表ではあまりつっかることがなくて、明らかに教壇に立つようになった効果が現れているように感じた。


 ぼくの先生は「考えてから話すのではなくて、とにかく話しはじめて、話しながら考えればいいのだ」とよく言っていたのだけど、当時はぼくは全然できなかったし、よくわからなかったのだけど、いまになってやっと多少わかるようになった気がしていて、つまり、教壇で話をするというのは、カラオケで歌を歌うようなものだと思えばいいのではないか。カラオケでは恥ずかしさを忘れて人前で歌っているわけだし、持ち歌であればつっかえることはなくて、切れ目なく声を出し続ける。
 話すことも同じなのではないか。当たり前のことなのだけど、気のおけない友だちと話をしているとき、慎重に考えてから話そうとして言葉が途切れることはなくて、普段思っていることをそのまま(あるいはベースとして)話している。人前で話すときだってあまりに慎重に言葉を選んでいると、言葉が出てこなくなり、場が成立しなくなる。だから、基本的には友だちと話すときと同じモードで話すしかないわけだけど、もちろんこれは「普段自分が考えていること」をそのまま話すことなわけだから、バカがばれるんじゃないかとか怒られるんじゃないかとか相手を不快にさせるのではないかとかいった不安を常に感じながら話すことになる。


 不安を感じないためには、「自分に自信を持つこと」と「事前に準備をしておくこと」が大事だというのは、まあ言うまでもないことだと思うのだけど、ぼくがこだわっているのは、自分の頭の中には言葉の貯蔵庫みたいなものがあり、「とにかく話しはじめる」ことで、最初に話しはじめた言葉や思考が、次の言葉や思考を導き出して、自分の口から次々と流れ出るように言葉や思考が紡ぎ出されていく、ということだ。これは頭のいい人だけではなくて、誰もが日常的に行っていることなわけだし、あとは「言葉の貯蔵庫」の中にどれだけ場に合った言葉が収められているかと、「情報の連結」を引き出していくシステムを作り上げているか(つまり、それが思考力と呼ばれるものなのだろうけれど)の差なのだと思う。
 しかし、話すことというのは、つまりそういうことではあるのだけど、実際に話すその場においては歌うことと限りなく似ているのではないか……ということが言いたいのだけど、これは実感レベルの話であり、あまりうまく言えてるとは思えないし、なんとなくぼくが感じていることが伝わればそれでいいと思う。すでに頭の中に言葉や運用システムができあがっているのだから、実際に人前で話す場では、歌うくらいの気持ちで話せばいいのだ程度の話なのだけど。


 「言葉の貯蔵庫」ということについては、昨日の動画において、多和田葉子がドイツ語でインタビューに応じている中で「いま興奮して」という日本語がぽんと混ざっているのだけど、多和田の頭の中の「言葉の貯蔵庫」の中には、ドイツ語や日本語がごちゃまぜに入っており、言葉の連結の仕方次第ではああいうことが起こるのだろう、と思う。これは言語学では「コードスイッチング」と呼ばれるもので、留学生はみなバイリンガルなので、普段から研究室でよく聞くのだけど、まあぼくも丁寧語と2ちゃん語バイリンガルと言えないことはないし、実際、戯文的なテキストを書いているときなど、頭の中で言葉のシステムの切り換えスイッチが激しく切り替わっている感覚はある。
 もともとぼくは口下手で、それゆえに苦労を重ねているし、いままさにうまく話せるように努力を重ねていることを考えれば、言葉の問題は単に文学の問題というわけではなく、人間の営みの全体に関わることで大事だという認識は、国語教師としても文学研究者としても持っていたいと思う。