自主研究会



 映画の自主研究会で発表をしてきました。
 とてもレベルの高い会なので、プレッシャーを感じつつ、ずいぶん前から準備を進めてきた発表だったのですが、一応しっかり準備をしていっただけに、いくつか核心を突く批判も出たんですけど、まあそれなりに評価してもらえたのかな、という感じでしたね。


 質疑応答の中で出た批判を、いくつか箇条書きにしておこうと思います。
・越境というキーワードで論じていたが、映画の中での東京から地方への移動は、家族が待つ空間への移動であり、『イージー・ライダー』のようなロードムービーや亡命をテーマとする映画と比較すると、「越境」といえるほど、秩序/境界線の侵犯という意味/強度を持つものとはいえないように思う。
・東京と地方を二項対立的にとらえていたが、映画の中では二項対立的な図式がゆるがされていく過程が描かれているように思われるし、東京/地方の境界線がゆれている位相を押さえるべきではないか。例えば、映画には、東京と広島の中間地点である大阪も出てきており、終盤では、大阪は東京よりも広島に近いにもかかわらず、大阪から駆けつけた者が最後に遅れて駆けつけるというエピソードが語られている。これは時間と空間がゆれているということであろうと思われる。
・広島での東京での生活者のゆらぎを「都会モード」と「地方モード」のモードチェンジととらえるのは図式的すぎるし、もっとコミュニケーション一般の問題、家族の問題であるように思われる。面白い指摘ではあるけれども、映画を見たときに観客が受ける印象からは離れてしまっているように感じる。


 二点目の大阪という要素については、そのことに気づきつつ、この要素を論の中に組み込むと、またかなりの長さの論の組み立てが必要になることがわかっていたので、発表の中では切り捨てた要素でしたね。けれど、まあ、そういうことをすると、やはり質疑応答の場でツッコまれるんですよね。
 二項対立的な図式を作りつつ、作品の中で図式がずらされていく位相を押さえていくというのは、「どのようにずらされるのか」「なぜずらされるのか」など考える要素が増えるし、また独特の技術が必要になったりして、けっこう難しいんですよね。


 三点目については、一本筋の通った論旨を立てて作品を押さえていくことで、素朴な見方では見えてこなかったことが指摘できるというのが評論の醍醐味だと思うので、「まあ、たしかに図式を当てはめて、無茶な見方をしてるかもしれないけれど……」という感じですね。これはこれでいいんじゃないかと思うんだけど……という。
 一点目の越境の強度という点については、越境という言葉の意味について、研究や批評の流れの中でどのように使われているか、ということから考えなければならないので、ちょっと即座には答えが出せないですね。


 他にもいろいろ出たのですが、とりあえず、主としてはこんな感じですね。
 主宰の先生が楽しそうだったし、最後には「時間を感じなかった」と仰られていたので、まあ成功だったかなと思います。