キルドレは挑む、何かを変えられるなんてわけはなくても―押井守『スカイ・クロラ』評(1)



スカイ・クロラ

スカイ・クロラ



 押井守監督の最新作『スカイ・クロラ』(公式ページ)を観た。観たのは9月4日、場所はMOVIX仙台で、ここでは最終日。
 世評では退屈だったという感想が多いけれど、ぼくは高く評価する。後味はひどく苦い映画だから、「絶讃する」とか「感動した」とか「痺れた」とか、おおげさにはしゃぎ回る気にはとてもなれない、したがって、冷静な書き方にならざるをえないのだけれども、『スカイ・クロラ』は、映画としても文句なくすばらしいし、アニメ史の文脈でも、エヴァ以降、初めて正面から希望を語ろうとした作品だと思う。
 あるいは、たんに退屈な映画という印象を持たれる方も多いかもしれないが、映像の美しさという点だけでも映画館で観る価値がある映画だし、まだ上映している地域に住んでいる方はとにかく観ておいてほしいと思う。


 ストーリーは、キルドレと呼ばれる大人にならず死なない子どもたちが、企業間で行われる戦争の戦闘機乗りとして戦い続けている、という状況が設定されているのだけど、戦争といってもさしたる理由もなく行われているいわば「戦争のための戦争」であり、詳しくは書かないけれど、キルドレたちはアイデンティティーを奪われ、戦争から抜け出すことはできず、いつ果てるともない戦争で永遠に戦わせられつづける。
 映画には、この状況を変えたいのだけど、所詮そうした試みは無駄なのだ、何も変えられるわけはないのだ、という強い閉塞感が漂う。


 もちろん、これは現代の日本社会における若者のありようを反映している。押井はこの映画のねらいについて、フリーターやニート、引きこもりなど、閉塞した社会状況の中で、永遠に子どものままでいることを余儀なくされ、現在の状況を変えることができるという希望を失って、すべてをあきらめてきってしまっている若者たちに、希望を与えたかったのだ、という主旨のことを述べている。
 映画の表面的なストーリーだけ追えば、希望などどこにも描かれていないように見える。ヒロインは何も変えられない状況に苛立ち死を望み、主人公もまた結局何も変えられないように見える。


 しかし、これはいまや安易に希望を語ることはできないというまっとうな認識によるものだろうと思う。安易に希望を語るアニメならいまでもいくらでも作られているが、それはまったく同時代的な社会的意識を持たないものだったり、持っていてもあまりに甘く、説得力を持たないものだったりする場合がほとんどだ。
 絶望的な社会状況を意識した上で、変革の希望(何かを変えられるかもしれない)をぎりぎりのところで語った作品はエヴァが最後だったと思うが、エヴァから十年が経過し、状況はさらに誰の目にも救いようがないと感じられるほどに悪化している。


 こういう状況を見据えた上で、「自分が変えたいと決意し立ち上がりさえすれば、すぐにでも状況を変えることができる」というメッセージを送る作品が説得力を持つだろうかと考えれば、とてもそうは思えない。
 したがって、映画は状況を変えることなんて絶対にできないに決まっているけれど、しかし、それでも挑むのだ、というメッセージを送ろうとする。変わるわけなんてないんだけどさ、でも、挑むんだよ……。


 それははたしてシニカルな認識にすぎないのだろうか。ぼくはそうは思わない。現代の状況を見据えた上でシニカルな認識を持たないのはたんにバカだし、かといって、シニカルな態度であり続けることは、おそらく状況をさらに悪化させるだけだ。
 だから、現実のキルドレたちは、社会にコミットすべきなのだ。ニートは就職活動をすべきだし、非モテは恋をすべきだ。就職できなくても、彼女ができなくても、挑むべきなのだ。


 ……なんだか久しぶりに熱くなってしまったが、押井が映画に込めたメッセージ性を素直に受け止めれば、こういうことになるのだろうと思う。
 むろん、映画は作り手のメッセージ性に還元されるだけのものではないし、さらに言えば、このエントリで受け止めた「メッセージ」なるものが、映画外の作り手の発言と映画の内容をすり合わせることで成立する読みにすぎないことも理解している。
 また、「状況を変えられないと認識しつつ、しかし挑むのだ」とか言ってるのってどうよ? セカイ系? という批判も当然ありえると思うけれど、ぼくも常にそういうモードで生きているわけではないということを、一応、一言断っておく。そんな常にテンパっててもろくな結果にならないですからね……。