楽園のありか―熊澤尚人『ニライカナイからの手紙』



ニライカナイからの手紙 [DVD]

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 『二ライカナイからの手紙』は、2005年に制作された、熊澤尚人監督&脚本の作品。出演は、蒼井優蒼井優蒼井優蒼井優、ちょっとだけ平良進 、ちょっとだけ南果歩など。


ニライカナイはどこにあるのか?
 ストーリーを紹介する。沖縄の島(竹富島)に住む少女風希(蒼井優)は、幼い頃、母(南果歩。映画の中で、風希は「おっ母」と呼んでいるので、以下それに準じる)との別れを体験する。少女はおじい(平良進)におっ母は東京に行ったのだと説明されるが、おっ母が島に戻ってくることはなく、年に一度だけ誕生日の日に手紙が届く。18才の誕生日に届いた手紙に書かれていた、「夢を追うように」という言葉に背中を押された風希は、カメラマンになるという夢を追って上京し、プロのカメラマンの元で住み込みの助手として東京で働きはじめる。
 この映画はとてもすばらしい映画なのだけど、見ていると、「ニライカナイとはどこなのか?」ということがわからなくなり、多少混乱する。映画の冒頭でおっ母は、沖縄で伝承されている伝説の地ニライカナイについて、風希に、誰もが幸せに暮らせる理想の国なのだと説明する。


 では、ニライカナイとはどこなのか? 風希にとってそれはおっ母がいるところ、つまり、東京である。東京はまた、プロのカメラマンになるという夢を掴む場所でもある。
 ところが、この映画では、東京は、徹底的に雨かくもり空の情景として描かれる。風希が付いたカメラマンは人使いが荒く、優しい言葉ひとつかけることなく、ミスを怒鳴りつけてばかりいるし、他の人が風希に優しく接してくれる光景も描かれない。沖縄であれほど生き生きとしていた風希は、東京では、疲れ切って、薄暗い自分の部屋のベッドに倒れ込むばかりだ。
 実際には、東京にだって晴れの日くらいあるだろうし、上辺だけにせよ、優しい言葉の一つもかけてくれる人の一人もいなかったわけはないのだが、問題は東京がそういう風に描かれている点にある。
 一方で、この映画の中盤では、東京の薄暗い風景と明らかに対照する意図で、風希が出てきた沖縄の島の美しい風景が、何度も挿入される。明るい太陽に照らされた草原や浜辺、森。そして、島の人々は風希のことを心配し、神さまにお供え物をし、お祭りの日には民族衣装を身につけて踊る。どう見ても、風希が飛び出してきた沖縄の島の方がユートピアに近い場所であり、ニライカナイそのものなのだ。


◆循環するまなざし―ユートピアとしての沖縄
 もちろん、ニライカナイなどというものはなく、理想の場所=ユートピアとは、すなわち、どこにもない場所、不在の場所であり、あるとすればそれは死者の国ということになるだろう。しかし、人がユートピアを夢見るものである以上、ユートピアをイメージする手がかりとして、現実の世界に存在する具体的な空間は求められるのであり、沖縄は、現代の日本において、ユートピアとしてイメージされがちな場所である。
 だから、この映画が沖縄をユートピアとして描いてるというのは明らかだと思うのだけど、しかし、映画のヒロインである風希にとって、沖縄はユートピアではない。島はおっ母が出ていった場所であり、夢をかなえることができる場所でもないのだから。
 また、風希が東京での生活を体験したことで、島が楽園であったことに気づく、というようにも、この映画ではなっていない。風希はちょっと天然ぼけの入った子であり、そのことこそが風希の「沖縄の少女」としての有徴性だと思うのだけど、あくまでナチュラルに(過剰に周縁/中心、地方/都会といった意味づけをすることなしに)、東京と島を往復している。
 結局、映画は風希がニライカナイを求める(おっ母がいる場所)をユートピアとして求める姿を描いていくのだけど、映画の観客のまなざしとしては、ユートピアをイメージする手がかりとして、沖縄や風希自身を見出し、いつの間にか沖縄、そして風希がいる場所こそがユートピアとして見出される、ということになっているように思う。
 「ええっ、だって、風希にとって島は幸せの条件を満たしてくれる場所じゃないから、島を出たんでしょう? どうして島がユートピアとして描かれるの?」という素朴な疑問に対する回答は、この映画の中に用意されていない。


◆まなざす風希
 沖縄を舞台にした映画は、沖縄をユートピアとしてまなざす視線について、観光化や植民地化といった文脈で批判されることが多く、そういう批評の枠組みに乗るのもどうかと思うので、風希がプロのカメラマンをめざしていることの意味について考えてみたい。
 映画の冒頭で、高校生の風希は、沖縄の風景を写真に撮り、知り合いがやっている土産物屋に自分が撮った写真を置いてもらっている。そして、観光客が写真を一枚三百円で買うという描写が、この映画にはしっかり描き込まれている。
 つまり、この映画では、沖縄が観光地となっていることは自覚的に描かれており、風希もまたそうしたまなざしを意識して沖縄の風景を写真で撮影している女の子なのだ、ということになる。自分が撮った写真が観光客に売れることが、彼女がプロのカメラマンになろうと決意する動機となっているわけだ。


 では、風希は東京でどんな写真を撮ったのか、風希の目に東京はどんな風に映ったのかが、次に問題になると思うのだけど、風希が東京で撮ったのは、公園で親子連れに透明のボールを持たせて撮る、というものだ。
 おそらくポイントは、演技を付けたファンタスティックな写真であるという点で、東京のありのままの風景を彼女は撮っていない。沖縄の写真は、自然の風物をそのまま撮ったものであることを考えれば、おそらく風希にとって東京は、撮るに足る美しい風景はない場所として認識されているように思われる。
 東京に来た風希は、カメラマンの助手をしながら、なかなか自分の写真を撮ろうとしない。たとえたいへんな時期であっても、美しいと感じる景色があれば写真に撮らなければやまないのが写真家というものだろう。写真を撮るに値すると感じさせる景色がないと思っていること、このことが風希の東京への評価のすべてである。


 つまり、風希のまなざしにおいて、東京は、批判的な批評にさらされているのだ。
 こうしたまなざしの相互関係において、東京と沖縄という空間を、改めて捉え返そうとしている点こそが、『二ライカナイからの手紙』という映画の試みなのだと、ぼくとしては考えたい。