上から来る怪異―黒沢清『叫』における垂直/水平の運動と現代的コミュニケーション



叫 プレミアム・エディション [DVD]

叫 プレミアム・エディション [DVD]



◆非日常性のイメージとしての垂直運動
 映画『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』(1995年)は、光学迷彩スーツを身につけたサイボーグ草薙素子がビルから落ちていくシーンから始まり、高いところから飛び降りた際に「ドスン」という地響きを立てて地面に着地したり、趣味のダイビングで海の底から浮上したり、といった垂直方向の動きがよく見られる。このことについて、押井は、垂直方向の動きというのは現実の日常生活の中であまり目にすることのない、非日常の動きなのだと説明していたことがある。たしかに、垂直方向の動きは映画の中でよく使われるものだろうと思う。例えば、アクション映画やSF映画では、高いところから落ちるとか飛び降りるとかいったシーンが、映画の見せ場として用意されていることが多い。


 映画が非日常な視覚のスペクタクルを体験させる場であるとすれば、非日常的な異界の存在が日常の世界に侵入してくる様を描くホラー映画においても、異界の存在が上や下の方向から、つまり、垂直方向からきっと来る(この記事では、「幽霊など異界の存在がやって来る」の意。出典は、『リング』主題歌のHIIH「feels like "HEAVEN"」 )パターンが多く存在するはずだ。
 例えば、『リング』(1998年、監督中田秀夫)の貞子は井戸の底からはい上がってくるわけだし、これは番長皿屋敷の井戸からすーっと浮かび上がってくる幽霊を踏まえている。思いつくままに挙げていけば、映画『怪談』(2007年、監督中田秀夫)でも、幽霊から逃げて橋の下で休む主人公が見上げると橋の隙間からこちらを覗き込む女の顔が覗くシーンや、主人公の頭上に異界が出現して引きずり込まれるというシーンがあった。
 『仄暗い水の底から』(2002年、監督中田秀夫)でも、上の階からの水漏れで天井に染みができたり、エレベーターの中で幽霊が現れたり、アパートの屋上が鍵になったり、怪異が発生する場が垂直方向にあるという傾向は明らかなように思う。中田秀夫監督作品ばかり例に挙げるのも恐縮なので、他の監督の例を挙げれば、『劇場版 呪怨2』(2003年、監督清水崇)でも天井に幽霊が張り付いていて引きずり込まれて殺されるというシーンがあったと記憶している。
 もちろん、貞子が這いながらにじり寄ってくるといったように、水平方向から異界の存在がきっと来る場合も多いし、ホラー映画では、必ずしも垂直方向からきっと来るわけではないのだけど、垂直方向というのは日常生活の中でも視界の死角となっていることが多いわけで、上や下からいきなり襲われるという描写は、日常的な感覚に根ざしたリアルな恐怖を呼び起こす効果があるわけだ。


◆水平運動と並行するコミュニケーション
 映画『叫』(2007年、監督黒沢清、出演役所広司小西真奈美葉月里緒菜)は、『CURE』(1998年)、『回路』(2000年)、『降霊』(2001年)、『ドッペルゲンガー』(2003年)、『LOFT』(2006年)と続いてきた黒沢清のホラー映画を凝縮したような作品であり、現代において都会で生きる人間特有の冷え冷えとした人間関係がよく描かれている作品だと思うのだけど、この映画では、垂直性と水平性という映画における運動の方向性と、非日常の怪異の出現との関係が、独自のものとして明確に意味づけられていたように思う。
 怪異の存在が必ずしも垂直方向からきっと来るというわけではない。ホラー映画で幽霊の出現を描く際に、水平方向にカメラが移動していくときに、主人公が気づいていない奥の方で立っている幽霊の姿がカメラのフレームに入ってくる、という描写がよく用いられるけれど、この映画でもこの手法はよく使われているし、幽霊が「赤い服の女」であるというのは、観客が幽霊がフレームインしたことに必ず気づくように、目立つ赤の服を着させているのだと思う。
 だから、必ずしもこの映画では、怪異の存在は上や下といった垂直方向からきっと来るわけではないのだけど、ただ、この映画の重要なテーマとして、目の前にいる人間と人間同士としての心の通い合ったコミュニケーションを取れない、という現代的な冷たいコミュニケーションのありようが描かれており(映画『blue』でも見せた、小西真奈美が冷たい人間を演じる演技が印象深い)、そのことは映画の後半において、水平方向への運動するもののイメージとして、もっと具体的に言えば、水平方向への運動するものがまなざしの対象との間に並行関係にあり、決して交わらない、というイメージとして、きわめて印象的な映像イメージとして提示されているのだ。
 この映画は、主人公が歩いていく姿をカメラが追っていく移動撮影やパンといったような、水平方向の動きが多用されている映画なのだけど、だからこそ、数少ない垂直方向の動きが際立つ。映画の後半では、極めつけの形で幽霊による垂直方向の運動が出てくるのだけど、水平方向の運動が現代における「目の前にいる人間に交わろうとしない」冷たいコミュニケーションを象徴するものだとすれば、幽霊の垂直方向の運動とは、そうした現代的な人間関係のありようを切断するものとして、映画の中に導入されているのではないかと思う。
 もちろん、切断とは決してポジティブなものではありえなくて、切断は死によってのみなされるのだが。(また、カメラの動きとしては、地震の際にカメラのフレームが震えるという映像も印象的だ。) 


◆水の主題
 『叫』において、もう一つ興味深かったのは、水が異界の入口として描かれていたことだ。映画の舞台は湾岸の地域であり、殺人の被害者は海の水に顔を付けられて殺されていくのだけど、作中にはお椀に蓄えられた水の震えが怪異の出現の兆候として描かれるシーンもあり、水と幽霊が強く結びつけられている。さらに、映画においてポイントとなる廃墟の建物の床が水浸しであるという描写もある。
 水以外にもう一つ、幽霊と強く結びつけられているのが鏡であり、鏡を見たときに幽霊が自分の背後にいることに気づくといった描写が出てくる。水と鏡は、モノを映すという点で共通しており、つまり、鏡もまた異界の入口なのだ。
 ただし、ここでの議論に当てはめれば、水と鏡は、水平方向と垂直方向でベクトルが違っている。水は「深さ」という垂直のイメージがあるけれど(『仄暗い水の底から』の「底」であるとか)、鏡は壁にかけるものなのだから垂直の運動を捉えるものではないだろう。鏡と怪異の問題も考えはじめればきりがなくあれこれ考えられるのだけど、ここでは水と垂直性のイメージの結びつきを、特権的なものとして確認するにとどめておく。


◆女優の美しさ―滑稽すれすれでしかし恐ろしく、美しい葉月里緒菜
 それにしても、黒沢清のホラー映画では、女優が美しく撮れている。『回路』の麻生久美子小雪、『ドッペルゲンガー』の永作博美、『LOFT』の中谷美紀安達祐実と来て、『叫』小西真奈美葉月里緒菜なのだからすごいものだ。とりわけ、『LOFT』の安達祐実『叫』葉月里緒菜の幽霊役はすごいの一言なのだけど、ぶっちゃけふたりとも世間では人間離れした存在として認識されているわけで、黒沢の起用には、そういうパブリックイメージを、「利用しつつ批評している」というニュアンスがある。
 『叫』葉月里緒菜なんて、赤い服を着ている美女の幽霊という滑稽すれすれの役であるにもかかわらず、きわどいところで滑稽なものにはなっていないし(つくづく滑稽と恐怖は紙一重だ)、幽霊となった淋しい女の悲しみが、実際に幽霊みたいな存在となった葉月里緒菜自身の悲しみとしてひしひしと伝わってくる。そしてまた、そのことによって絶世の美女としての彼女の美しさも際立っているのだものな……まいる。