水たまりの虹―熊澤尚人『虹の女神』における語り手としてのカメラ





 映画『虹の女神』は、2006年に制作された、熊澤尚人監督の作品。元は2005年に桜井亜美脚本・監督で制作されたラジオドラマで、映画化の際にはプロデューサーの岩井が、網野酸名義で齊藤美如(みゆき)と共同で脚本を担当している。さらに桜井亜美は映画化の際に小説を発表している。うーん、結局いったい誰が作った話なんだろう?


◆純粋な喪失
 映画のストーリーは、映像制作会社で働く岸田智也(市原隼人)がヒロイン佐藤あおい上野樹里)が飛行機事故で死んだことを知る場面から始まり、次にふたりの今までの関わりが回想されていく。出会いのきっかけは、岸田があおいのバイト先の同僚のストーカーだったことであり、この件が一段落した後で、あおいは自らが監督する映研の自主製作映画『THE END OF THE WORLD』の主演に岸田を誘う。このときも岸田は主演女優を好きになり、あおいにラブレターの代筆を頼んでいる。
 で、卒業後、あおいは映画製作会社に就職し、岸田はフリーターとなっているのだけど、あおいはアメリカに留学することを決意し、岸田を自分の穴埋めとして会社に紹介。それでもしばらく一緒に会社で働く間に、あおいは「引き止めてほしい」みたいなことを岸田にほのめかすのだけど、岸田は曖昧にぼかし、これが別れとなる。両思いの恋愛フラグは立ちまくっているのだけど、お互いに素直になれずフラグを折り合って、結局折りっぱなしに終わる。


 YAHOO!映画のユーザーレビューを見ると、九割のユーザーが「切ない」「泣けた」と絶賛しているのだけど、おそらく絶賛しているのは10代から20代前半のユーザーで、おそらく30代以上のユーザーの「傑作になる要素は十分あるにもかかわらず、失敗している」という評価がいくつか見られる。
 ぼくもこの映画にはとても惹かれるものを感じる一方で、なんだかちぐはぐな印象を持ったのだけど、いちばん大きな理由は、ヒロインであるあおいの死が唐突で、主人公の岸田の成長のきっかけになっていないこと。岸田は作中でフリーターから映画製作会社で働くようになるのだけど、あおいの死を知ったときも職場では叱られてばかりおり、いつ仕事を辞めてもおかしくない状態にあって、つまり、あまり成長していない。それは仕事を辞めてアメリカに勉強しに行ったあおいも同じであり、普通青春映画では目に見える形で、主人公の成長が描かれるものだと思う。そういう映画を見慣れている目からすれば、何か十分にストーリーが完結性を持って、最後まで語りきられていないように感じるのだ。
 ただし、結果としてヒロインの死はいわば「純粋な喪失」となっているわけだけど、恋人の死は主人公の成長のきっかけになるものなどではなく、喪失の痛みを他の何かで埋め合わせることなんてできないのだ、という認識は正しいと思う。と同時に、夢や仕事への情熱は持てず、繊細な恋愛感情以外、リアルなものとして感じることができないという現代の若者の姿がよく現れているとも思うわけで、恋人の死を純粋な喪失として描くこの映画が、若い観客の心を捕らえた理由はよくわかる。


◆水たまりに映る虹―語り手としてのカメラ
 ぼくがこの映画にちぐはぐな印象を持った大きな理由は、もう一つある。
 この映画で印象に残るシーンとして、ふたりで虹を見るシーンがあるのだけど、このときカメラは空に向かうのではなく、下に降りていき、ふたりの足下の水たまりに映る虹を捉える。タイトルと関わるシーンなのでとても印象に残るのだけど、映画を見ていると、このシーンには強い違和感を感じる。
 なぜか。映画でどんなカットを選択するかは監督の自由なのだけど、普通は自然に感じられるように撮るものだと思う。ではどういう風に撮れば自然に感じられるかといえば、主人公の目に映ったであろう視点でカメラが対象を捉えるというようにするのではないか。
 虹のシーンでは、当然ふたりは空の方を見ているのだから、カメラもふたりの目が捉えたであろう空の虹を映し出すのが当然のはずだ。ふたりは水たまりの虹など見ていないのだから。いったい、これは誰が見た映像なのか? 誰の視点なのか?


 「いったい、これは誰の視点なのか?」と感じさせるカットを選択する映画は、「カメラ」の存在を強く意識させる。映像をフレームとして切り取るカメラとはいわば語り手であって、自然に感じられず、不自然に感じさせるぎくしゃくとしたカメラワークは、映画を撮る語り手としてのカメラの存在を観客に意識させる。
 この映画には、もうひとつ、ふたりが大学の部室で話をしているとき、窓際に腰かけ窓枠に腕をかけている上野樹里の姿を、カメラが窓の外から映し出し、だんだん上昇していくという不自然なカメラワークがある。映っているのは上野樹里の左腕だけなのだけど、この映像もきわめて不自然で、誰の視点なのかといえば映画中の誰かの視点であるわけはなくて、映画を撮るカメラの存在を強く意識させるものになっている。ぼくが気づいていないだけで、この映画には、他にもこうしたカメラの存在を意識させる不自然な視覚による映像が、おそらくいくつかあるはずだ。
 たとえば、この映画は一章、二章、三章……というように、章形式で進められていくのだけど、ストーカーだった岸田が逆にストーキングされるという六章などは、岸田とあおいの恋愛を主題とする映画のメインストーリーには不要であり、ストーリーの流れとしてぎくしゃくとした印象を与えるものになっているのだけど、こうしたストーリーのスタイルもまた、映画の語り手の存在を強く意識させるものといえるだろう。


◆『虹の女神』のメタ映画性
 では、なぜそういう語り方をするのかというと、「なぜ、水たまりの虹を映すのか?」という疑問にこだわりたいと思うのだけど、結局、現実の虹ではなくて、映像としての虹が問題なのだ、ということなのだろう。
 岸田は虹の映像をケータイのカメラで撮影し、あおいに送るのだし、作中作の自主製作映画『THE END OF THE WORLD』でも、ヒロインの恋人であるカメラマンは、世界滅亡の最後の一週間に、二日前に見られるという隕石を撮影するために、北極に旅立つ。虹自体ではなく、撮影された映像データとしての虹にこだわるのであって、おそらくこれはラジオドラマや小説にはない要素のはずだ。虹を見る場面で、水たまりに映る虹を映すということは、ラジオや小説ではできない。


 この映画には、限りなく映画についての映画、メタ映画に近いのではないか、という感触がある。だいたい、映研が映画製作をしている様子を語りながら、このとき作った映画を映画の中でまるまる一本作中作として上映するなどという映画も、なかなかないのではないだろうか。
 作中作『THE END OF THE WORLD』の内容を考えれば、『虹の女神』という映画自体、あおいが作った映画なのだ、という可能性も当然考えられていいはずであり、さすがにそれはそこまで言い切っていいほど強く示唆されているわけではないのだけど、映画についての映画、メタ映画、という性格は、かなり強く持っている映画なのではないかと思う。そんな風に解釈すれば、ぎくしゃくとした印象も、一応納得できるのではないだろうか。


 虹は光にかかわる現象であり、映画もまた光学現象を利用した芸術である。とすれば、虹とは映画の象徴であり、映画が好きで映画制作に賭けていたあおいを象徴するものといえるだろう。「虹の女神」というタイトルは、また、「映画の女神」と言い換えることもできるはずだ。