電信柱からの眺め―堤幸彦『恋愛寫眞』



恋愛寫眞 [DVD]

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 『恋愛寫眞 Collage of our Life』は、2003年に公開された堤幸彦監督の作品。


◆魅力的なヒロイン―自由を象徴する存在としての広末涼子
 この映画は広末涼子に尽きる。ストーリーは、ニューヨークで雇われカメラマンとして冴えない生活を送る瀬川誠人(松田龍平)が、恋人を追ってニューヨークに来たことを語る場面から始まる。で、しばらくしてから長い回想シーンが始まるのだけど、カメラマンになるという夢を持つ誠人が、奔放な性格の少女里中静流広末涼子)と大学で出会うくだりがとてもよくて、広末涼子がとても魅力的に撮れている。
 広末は1980年生まれなので、当時23才。子どもが手を放してしまって電線に引っかかった風船を取ってやるために電信柱に登ってしまうようなクレージーな女の子の役どころなのだけど、全然計算している風には見えないので、広末ってもしかして天才女優なんじゃないか?と思わせられる。この映画での広末の魅力はちょっと神懸かり的で、怖くなってくるほどだ。


 なぜこれほど魅力的なのかといえば、物語のレベルでいえば、静流は自由を象徴しているからだろうと思う。人はなんだかんだと自由になれずに生きているわけだけど、静流はどこまでも自由に生きているように見え、だからこそ魅力的に見える。
 それはそう見えるように、静流がある意味で演じていたことがやがて明らかになっていくわけだけど、この映画では自由な女としての静流のエピソードが、男を殴って逃げるという出会いのシーンから、カップラーメンにマヨネーズを入れて食うという日常のレベルのエピソードまで、いくつも積み重ねられていく。まあ、不思議ちゃんなわけだけど、不思議ちゃんってぶっちゃけめちゃくちゃかわいいわけだし(笑)、ジーンズ姿で走り回っている広末は、本当にむやみやたらと魅力的なのだ。


 なので、広末が姿を消す後半は、途端に映画のテンションが落ちる。映画は、静流が誠人と一緒にいたいという一心で写真を始めると、見る間に才能が開花して、写真コンテストに二人で応募したところ静流だけが入選して、誠人は落選してしまう。誠人の嫉妬のせいで二人は一緒にいられなくなり、静流は行方不明となって、数年後ニューヨークから誠人の下に便りが届く。誠人は静流を追ってニューヨークに旅立つ……という展開となるのだけど、正直なところ後半はあまり面白くない。
 前半の広末との恋愛の描写が魅力的すぎた反動かもしれないが、映画の雰囲気にそぐわないアクション映画紛いのシーンが入ってきたり、乱調気味となる。まあ、前半と後半が全然別の映画になってしまう、前半で構築したものを後半で崩すというのは、『ケイゾク』の堤幸彦らしいアヴァンギャルドぶりと言えば言えるのだけど、これは広末という映画の女神が不在となってしまったがゆえの乱調と見る方が、個人的にはずっと納得がいく。


◆まなざしの共有
 さて、この映画には、映像的にもおもしろい箇所がいくつもある。写真、カメラというテーマがあり、しかも静流という少女が被写体から撮影者になっていくという移行もあるのだからこれは当然で、詳しく分析していけばいろいろな発見があると思うのだけど、ここでは一つだけ指摘しておきたい。
 それは、大学時代の場面で電信柱に登った静流を誠人が写真に撮るというシーンがあるのだけど、子どもが風船を手放すというエピソードは、現在のニューヨークの場面でも反復されて、今度は誠人が電信柱に登ることになるのだけど、このとき誠人は、「これが静流が眺めていた光景なのか」と嘆息する。
 誠人は大学時代には、静流が電信柱の上から町の風景を眺めてため息をつく表情に惹かれてカメラのシャッターを切るわけだけど、今度は自分が電信柱の上から見る町の風景を見ることになるわけだ。誠人はこんな風に常に静流の後を追い掛けていくわけで、それは実は最初からそうだったのだ。


 そして、誠人は静流と、同じ夢を持つ者として、また、カメラマンとして、まなざしを共有していくわけだけど、お互いに向き合う/見つめ合うのではなく、同じものを見つめる/まなざしを共有する、という形で、恋人であり同志であり……という関係になっていくのかな、と。
 この映画は、誠人の通過儀礼(イニシエーション/成熟=大人になること)の物語として読めると思うのだけど、恋愛、通過儀礼、そして写真という三つの主題がうまく重ね合わせられており、後半の乱調にもかかわらず、よくできている映画だと思う。


◆俯瞰の映像が意味するもの
 映像的には、電信柱の上から見た風景というのは、俯瞰の映像であるわけで、俯瞰の映像の獲得がこの映画においてどんな意味を持つのかが気になるところ。
 おそらく普段住んでいる町を俯瞰から眺めたときに美しいと感じる視点の獲得が、静流や誠人が芸術家として開眼するきっかけとなるということだと思うし、それは電信柱に登るという社会的にちょっとどうかと思われるような、「自由だーっ!」な精神の行為をあえて行うことで、社会的な規範の中に囚われたまなざしを一度相対化することでしか得ることができないものだったということなのではないかと思う。
 しかし、この点については、映画全体の映像表現を見ていくことで、また違った解釈も可能だろう。この映画は細かく分析していけばいろいろ出てきそうな映画だと思うので、機会があればもう一度見てみたいし、分析してみたいと思う。


 ところで、なんとなく誠人に思いを寄せているのだけど、静流の登場で振られる写真部の女の子という役どころで、この映画に出演している西山繭子という1978年生まれの女優さんは、作家伊集院静の娘なのだそうだ(夏目雅子の娘ではなく、夏目は子どもを産んでいない)。作家でもあり、本も出版しているらしい。なんだかえらい美人だ。チェックしておこう。




◆補説―映画を救う女優たち:『ただ、君を愛してる




 『ただ、君を愛してる』は、2006年に公開された、新城毅彦監督の作品。映画『恋愛寫眞』(堤幸彦監督、2003年)のコラボレーション企画として執筆された市川拓司の小説『恋愛寫眞 もうひとつの物語』を原作としており、この辺りの原作と映画タイトルの関係はちょっとややこしいことになっている。
 カメラマン志望の大学生誠人が大学で静流という女の子と出会い、恋に落ち、同棲する→静流が追いかけるように写真を始めたところ才能が開花し、写真コンテストで先に入賞したために別れざるを得なくなる→誠人は静流を追ってニューヨークに旅立つが……というストーリーラインやキャラクターの名前まで同じであるにもかかわらず、まったく違う別の話だというのだから、なおさらややこしいのだが、しかしこちらもなかなかいい映画だと思うので、こちらについても、少しだけ書いておきたい。


 この映画も静流役の宮崎あおいに尽きるわけだけど……まあねえ、宮崎あおい眼鏡っ娘なわけですよ。眼鏡を掛けてるとかわいくないんだけど、外すと意外なほどかわいくて、ドキドキするというお約束のシーンもあるわけですよ。その上、貧弱な体の少女なわけですよ。で、捻くれていて口も性格も悪いわけですよ。でも、実は根っこはいい子なわけですよ。ツンデレなんですな。それで玉木宏(誠人)の部屋に押しかけていって、「宿代は体で払うから!」とか言って抱き付こうとするんだけど、ちっともエロくないものだから玉木宏もその気にならなくて、さっさと一人で寝てしまうわけですよ。……ねえ、それ、なんて萌えキャラ?
 DVDのジャケット写真になっているシーンは、静流が写真コンテストに応募する写真を撮影するために、「あ、あくまでコンテストのためなんだからねっ!」と念押ししつつ、誠人に頼んでキスをしてもらうシーンなのだけど、これがけっこうエロかったりもして……という感じで、見所がたくさんある映画なんですな。


 で、市川拓司という人はこういう「まるっきり少女マンガ」という話を書く人なのか……と思ったのだけど、静流がなぜ貧弱な体なのかという理由もすごくて、ここから完全にストーリーのネタばれをするので、未見の方は注意してほしいのだけど、成長すれば、体の中の病気も成長して、数年で死んでしまう、という病気を抱えていたというのだ。それで、成長を抑制するホルモンを注射していたために、体が貧弱だったのだと。それで、誠人と出会って、自分は死んでもいいから成長したいと思ったので、成長を抑制するホルモンを打つのを止めために、静流はニューヨークで成功して、しかし誠人との再会を目前にして死んでしまうというんですな。
 もうツッコミどころだらけなのだけど、でも、映画全体としては、けっこういい出来なので困る。話のネタだけ聞かされると、「それなんて病気だよ?」とか思うのだけど、映画でも小説でも話のネタを生かせるかどうかは、どう料理するか、作り手の腕次第でどうにでもなるのだ。


 で、この映画は、宮崎あおいによって成功したのだと思う。広末といい、女優の力というのは偉大だと思う。本当に。




 附記:誠人は、松山ケンイチじゃなくて、松田龍平ですね。コメントを承けて訂正しました。ご指摘、ありがとうございました。