映画『blue』におけるバスの主題



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 映画『blue』は、安藤尋監督の長編映画作品であり、2001年、新潟市で製作された。原作は魚喃キリコのコミック『blue』(1997年4月、マガジンハウス刊)であり、原作者は映画制作に積極的に関わったという。出演者は桐島カヤ子役に市川実日子、遠藤雅美役に小西真奈美、中野美恵子役に今宿麻美であり、彼女たちはいずれも撮影時23才であった。


 映画『blue』においては、バスが、説話論的な機能を果たし、学校、海、街、家、東京といった空間を分節化していく交通機関(=移動手段)としての役割を担っている。バスはこの映画の中で六回登場し、いずれも映画の主題と密接な関わりを持つ場面で、重要な役割を果たしている。


 以下、映画においてバスが登場するシーンを具体的に検討してみたい。最初にバスが登場するのは映画のタイトルが提示された次のシーンで、市川実日子演じる主人公桐島カヤ子が田んぼの中を通る道路に立つバス停まで走っていく場面である。桐島は高校三年生の女子高生であり、毎朝バスに乗り、高校(女子高)まで通学している。バスに乗り遅れると遅刻することになるので、間に合いそうになければ彼女は走ってバスに駆け込まなければならない。
 このシーンに先立ち、この映画は小西真奈美演じるもう一人の主人公遠藤雅美が学校から救急車で運び出されるところを、桐島が二階の教室から眺めているシーンから始まっている。桐島にとって遠藤は、学校という社会秩序の中にあるシステムから逸脱する存在であり、桐島自身は学校に間に合うためにバスに乗る存在、すなわち、社会秩序の枠の内側にある存在であることが、冒頭のふたつのシーンによって明瞭に明示されているのである。


 バスが登場する第二のシーンは、学校からの帰り道のバスの中で離れたところに立っている遠藤を桐島が見つめているが、遠藤は途中でバスを降り、海岸に歩いていくというシーンである。バスは家と学校を結ぶ交通機関であり、このラインは女子高生をそれぞれの家/家庭から学校という社会システムへと輸送する機関なのであるが、ここでも遠藤は社会的な秩序の枠から降りてしまう存在として、桐島の前に立ち現れる。ただし、このとき遠藤は桐島の視線を十分意識しており、遠藤の途中下車は誘惑のパフォーマンスである。
 海は、家と学校という社会的な秩序の中間に位置する空間であり、海岸は、社会の完全な外部である海(=自然)と社会の境界としての意味を持つ。海および海岸については、後に述べる。


 バスが登場する第三のシーンは、仲良くなった遠藤と桐島が音楽の話をするシーンである。このとき二人はともに立って話をしている。これ以前、遠藤は家を訪れた洋楽のCDを貸していたのだが、桐島が惹かれたのは遠藤の部屋にあったセザンヌの画集であり、ともに借りたセザンヌの画集を家で一心に見つめる桐島の姿が描かれている。ゆえに桐島は貸したCDの感想を求められても何も答えられないのだが、遠藤も気にした風ではなく、二人が互いに趣味や共通の話題において話が合うことを求めているわけではないことが、さりげなく描写されている。
 ただし、バスから降りた後、遠藤が、前のクラスからの友人中野と音楽の話で盛り上がるシーンが描かれ、桐島が遠藤は自分と付き合っていて楽しいのかどうかと疑問を抱く伏線となっている。


 第四のシーンでは、桐島と遠藤は車両後部の二人がけの座席に座り、将来の話をしている。自分はまだ何も考えていないという桐島に対して、遠藤は自分は地元の短大に行こうと思っていると述べ、桐島に同じ大学に行こうと誘う。このとき桐島は大学が同じでも学部が違うなら嫌だと駄々を捏ね、桐島の甘えん坊ぶりに二人は笑う。この時点までに二人の関係は非常に密なものになっているが、まだ互いに自己を開示した上での親密さを構築するには至っていない。


 第五のシーンは、前半のクライマックスと言えるシーンである。桐島は同じクラスの友人に誘われて行った合コンで、水内という男子高校生に誘われてホテルに行き、そのまま寝ている。合コンのシーンで桐島は水内が煙草に火をつける仕草を見つめているが、桐島はそれ以前に遠藤の部屋に行った際にも遠藤が煙草に火をつける仕草に見とれ、「火の付け方がきれいだなーっと思って見てる」と述べている。したがって、桐島が水内と寝たのは遠藤に近づきたかったからだということは、観客の目には明瞭である。
 ところが、桐島は水内に気があった友人の恨みを買い、下校間際に玄関で友人に罵倒される。遠藤が帰りのバスの中で桐島の手を握って、一緒にバスを降りるように促し、海へと誘ったのは、こうした出来事があったためである。
 海岸で二人が腰を下ろすと、遠藤は、「ときどき、学校帰りにここに来て、時間を潰してたんだんだよ」と言う。海は、社会の内と外の境界に存在し、一時社会から自分を解放し、自分を見つめなおすことで、再び社会の中に戻っていくために心を整理する場所として、遠藤の中にあったのではないかと思われる。
 海は、二人の関係を見つめなおす場にもなる。「さっき、すごかったね。ドラマ見てるみたいだった」、「好きだったらいいんじゃない? しょうがないよ」と桐島を肯定しなぐさめようとする遠藤に対して、桐島は「だって、わたし、遠藤が好きなんだよ」と、遠藤への恋愛感情を告白する。その場から立ち去ろうとする霧島を追った遠藤は。「霧島、好きってそういう意味? だったら嬉しいな」と、桐島の告白を受け入れる。遠藤は、桐島が精神的に未成熟な少女であって、自分への憧れは子どもがずっと年上の女性に憧れるような拙い感情であることを見抜いているので、冷静に告白に対処できる。
 遠藤(=遠藤を演じる小西真奈美)の声色は、登場時から一貫してどこか俯瞰した地点から嘘を言っており、感情がこもっていないように感じられる上ずったものであり、一拍置いて言葉を発するのも考えてから言葉を選んでいる印象を与えるものであるのだが、そうした声のトーンはこのときも変わらない。
 ただ、遠藤が桐島にキスをした後、桐島は「遠藤、わたしといて楽しい?」と聞くのだが、遠藤は「楽しいし、嬉しいよ」、「わたしのこと見つけてくれたの、桐島だもん」と答える。冷静な姿勢を崩さないものの、遠藤にとっての桐島の存在もまた、桐島にとっての遠藤の存在と同じくらいには大きなものであるということに嘘はない。そのことは、この後の展開において明らかになっていく。


 この後、バスはほとんど登場しなくなる。代わって、登場してくるのは汽車と歩行である。
 一学期の終わり、遠藤は学校に来なくなる。桐島は中野から、遠藤が去年中絶事件を起こした際に付き合っていた妻子ある男性の下に行っていることを知らされる。次のシーンでは、遠藤と男が駅で別れる場面が描かれる。この場面は、「東京で一緒にやり直さないか」という男の誘いに対して、遠藤は断り、別れを告げたシーンであることが、後に明かされる。
 遠藤はこれ以前にすでに桐島に「本当はここから出て行きたい」と打ち明けているが、汽車は、町と町、田舎と東京を結びつけるゆえに、町から出て行くための交通機関であり、基本的に町の中の交通ネットワークで完結するバスとは異なる性格を持つ。後半では、「町を出ること」という主題が浮上してくるために、バスはほとんど登場しなくなっていくように思われる。


 「町を出る」のは、ただ町を出ればいいというわけではない。目標を持ち、自分の夢を実現するために町を出て東京での生活を始めるという社会のルールに則ったいわば正規のルートと、漠然とした憧れや田舎に埋もれることへの焦燥感だけで東京に行くいわば非正規なルートでは、結果に雲泥の差があるだろう。
 遠藤は「でも、怖いんだな。何にもないまま、出ていくのって」と東京への憧れと裏腹の不安を桐島に語っているし、「二人で一緒にやり直す」ために東京に行くという男の提案も断る。もちろん、男との東京行きには、社会の底辺に落ちていく無残な結末が待っていただろう。「桐島がいたから行かなかった」と遠藤が言うのは、そのことに気づいているからだ。遠藤にとって無垢で純粋な守るべき存在である桐島は、自分をかろうじて社会に繋ぎとめてくれる存在でもあるのだ。
 しかし、遠藤は、結局「町を出る」ことはできない。一方で、桐島は自分の目標を見つける。セザンヌに惹かれたことをきっかけに絵を描くことに興味を持った桐島は、美術の先生の下に行き、美大を受験するためにデッサンの勉強をしはじめ、おそらく結末においては、美大に合格し、東京での生活を始めている。


 六番目にバスが登場するシーンについて検討しよう。学校から姿を消していたのは男に会うためであったということを遠藤に教えてもらえなかった桐島は、「すごく悲しい」気持ちになり、遠藤を無視するようになる。
 美術室でデッサンをする桐島に冷たくされた遠藤は桐島にキスをしようとし、桐島に「こんなのひどい」と罵倒される。「汚いでしょわたし。だから桐島に嫌われても仕方ないよね」と自己卑下し泣く遠藤に対して、桐島は「わたしがいなくても平気じゃない。どうして泣くの?」と一喝する。遠藤は泣きながら外に歩き出し、桐島は追う。ここでは、桐島が遠藤に告白したシーンとは立場が逆になっており、桐島に無視されることに耐えられなくなった遠藤は、それまでの余裕のある態度を捨て、桐島に自分の感情をぶつけていく。もちろん、声も上ずったものではなくなっている。
 そのことがわかったので、優しい子である桐島はすぐに遠藤を許す。感情を爆発させてすっきりしたのか、二人は追いかけっこをした末に、いつのまにかアーケード街でお腹が空いたと言って肉まんを食べながら、打ち解けて話をしている。
 二人はそのまま夜明けまで、外で一緒に時間をすごす。以前は、遠藤になりたいいう桐島に対して、遠藤が「なってもがっかりするよ」と答えていたのに対して、ここでは「私、何もないもん。桐島はいつのまにか自分のやりたいこと見つけたけど、私はダメ」、「桐島、強いよ。わたしもそうなりたい」と言う遠藤を、桐島が「何もないってことない。遠藤はそのままで遠藤だよ」となぐさめるという会話がなされる。
 桐島は無垢な少女なので、「でも、わたしはいつも遠藤が一番好きだよ」という言葉に嘘はないだろうが、しかし、現実には二人には大きな差が付いており、桐島の言葉はなぐさめでしかない。桐島は遠藤への思いをステップに自分の目標を見つけることができたが、遠藤には「何もない」。趣味にしても「話が合うから」という理由で他人に合わせて選んでいる遠藤は、実は桐島よりも強く他者に依存するあり方を示しており、本当に自分が好きなものを選ぶことができる桐島の感受性に敵わないのである。
 海で夜明けを迎えた二人は、バスが走ってくるのを見つける。「始発バスだ」、「あれ乗ったら学校行けるね」、「行こう」。桐島は遠藤の手を握って走り出す。二人は夜の町をさまよい歩いた末に、学校に向かう始発バスに乗るために二人で走っていく。もちろんこれは二人が社会の中に戻っていくということであり、いったん社会の外をさまよった後で、学校が象徴する社会の秩序を積極的に認めていくとともに、あれほど退屈なものに思われた学校という空間を再評価していくという結末であるように思われる。


 ラストシーンは、次のようなものである。学校の屋上の空ショットが映される。桐島の声でナレーションが流れる。「東京に行ってから、遠藤からビデオテープが届いた。私はそのビデオテープを何度も繰り返し見た」。そして、遠藤が撮影したらしいハンディカムで海の風景を撮影した映像が映される。しかし、もはやこの映像に意味を見出すことは難しいだろう。
 桐島は東京に行き、遠藤は町に残った。二人の間の距離は、学校、家、街、海などバスで結ぶことができる距離ではなくなり、物語において意味を持つ場であった海もまた、もはや物語を生み出す空間ではないのである。




以下、参考リンク


blue (魚喃キリコ)@Wikipedia


カサブタのある記憶 『blue』@独立幻野党
 この映画の場合、原作と映画の違いを分析するのは有効だと思う。
 あと、膝小僧は超同意!