眠れない夜と尾形亀之助



 ――眠れない。
 眠れない夜は、尾形亀之助を読むに限る。



眼が見えない




 ま夜中よ


 このま暗な部屋に眼をさましてゐて
 蒲団の中で動かしてゐる足が私の何なのかがわからない





 布団の中で感じる足の異物感は、あれはいったいなんなのだろうか?
 足に疲労が溜まっているからなのか。



夜の向ふに広い海のある夢を見た




 私は毎日一人で部屋の中にゐた
 そして 一日づつ日を暮らした


 秋は漸くふかく
 私は電燈をつけたまゝでなければ眠れない日が多くなつた





 電灯を消し部屋を暗くすると、かえって目が冴えて眠られなくなる。心当たりのある人も多いはず。
 「夜の向ふに広い海のある夢」という開放感に溢れる夢の光景は、夜の息苦しさと閉塞感に捉えられている者が求めて得られない光景であるだろう。



夜がさみしい




 眠れないので夜が更ける


 私は電燈をつけたまゝ仰向けになつて寝床に入つてゐる
 電車の音が遠くから聞えてくると急に夜が糸のやうに細長くなつて
 その端に電車がゆはへついてゐる





 「電車の音」という聴覚の刺激が、まず細長い糸として感じられ、そして、「夜」の広い空間が一本の細長い糸に収縮していく。さらに、糸の端に「電車」が結わえつけられている、という視覚的なイメージに作り替えられていく。
 空間の変容のイメージがセンス・オブ・ワンダーを感じさせる、これはかなり見事な詩であろう。








 眠つている私の胸に妻の手が置いてあつた
 紙のやうに薄い手であつた


 何故私は一人の少女を愛してゐるのであつたらう





 目が覚めるともう夢の細部は忘れてしまっていて、思い出そうと藻掻いても、掴み寄せることができない。



雨が降る




 夜の雨は音をたてゝ降つてゐる
 外は暗いだらう
 窓を開けても雨は止むまい
 部屋の中は内から窓を閉ざしてゐる





 自ら内側から閉ざし、部屋に籠もる。
 外は暗い「だらう」、窓を開けても雨は「止むまい」。
 どうせ世の中は変わるまい。どうせ同じことだ。
 そんな風にして、今日もまた窓を閉ざす。



夜が重い
(笑つたやうな顔をして来る朝陽に袋をかぶせる)


 私は夜の眠り方を忘れてゐる


 ぱつとした電燈の下で
 指をくはへるやうな馬鹿をして
 風に耳をかしげ足を縮めて床の中に眠れないでゐる


 乾いた口に煙草を噛んで
 熟した柿のやうな頸を枕におしつけてゐる


 眼に穴があいてゐる





 「笑つたやうな顔をして来る朝陽に袋をかぶせる」、すなわち、「太陽は僕の敵」。
 「熟した柿のやうな頸」は、肩凝りの類。肩が凝り、首も痛い。
 「眼に穴があいてゐる」は、眼精疲労。目も疲れて充血している。
 しかし、眠れない。不眠の夜、布団の上で仰向けになって過ごしている眼は何も映さない。



話(小説)




「ね、―――」
「………」
「眠つていらつしやるの」
「さうだ」
「まあ――」
「……」
「眠つてゝ口をきいてゐなさるの」
「眠つてゐて口をきいてゐるんだ」
「ね、―――」
「何んだ」
「ほんとに眠つてゐらつしやるの」
「眠つてゐる」
「眠つてゐても返事をして下さる」
「してやる」
「聞えて」
「………」
「ね、聞えない」
「………」
「耳だけ眠つてるの」
「耳もおきてる」
「どうしてこれが聞えないの」
「――少しうるさくなった」
「まあ、聞えなくつてもうるさいの」
「聞えなくともどこかゞうるさい」
「どこがうるさいの――」
「俺の後ろの方がうるさい」
「あなたの後ろなら私なの」
「見えないからわからない」
「こつちを向いて下さらない」
「いやだ」
「ちよつとだけでいゝの――」
「いやだ」
「私、指でシイツに手紙を書いてゐるの」
「シイツに――」
「だつて、あなたへあげる手紙なの」
「ありがと――」
「何んて書いたか知つてる」
「知らない、けれどもありがと」
「ご返事は」
「返事はいらないだらう」
「せなかに書かしてね」
「いやだ」
「わかるやうに書くわ」
「せなかは手紙を書くところではない」
「ぢや何処へ書くの」
「――夢で俺に手紙を書け」
「あなたの夢の中へとゞくかしら」
「お前が寄こせばとゞくだらう」
「だつて、あなただけの夢ぢやないの、私の手紙を何処から入れるの」
「枕の下から入れるんだ」
「ね、―――」
「何んだ」
「あなたあの方が好きなんでせう」
「好きだ」
「私よりも」
「あの方って誰れだ」
「ふざけないで、真面目なのだから」
「真面目なのか」
「えゝ」
「いゝね」
「ごまかさないで、ね、ほんとのこと返事して」
「はい」
「はい――なんておつしやるけど、私泣き出すかも知れないの、
 後ろを見ればわかるわ」
「後ろは見たくない」
「私がゐるからなの」
「たぶんさうだ」
「あなたS子さんを嫌いだと言つて下さらない」
「誰れにだ」
「私に――」
「言つた方がいゝのか」
「言つて下すつた方がいゝわ」
「ぢあ嫌ひだ」
「ぢあ――つてどういふわけなの」
「それでは――といふ意味だ」
「ぢあ、S子さんのどこがお嫌ひなの」
「眼と鼻と口と手と足と首と声と肩が嫌ひだ」
「好きなところはあとの残りが全部なの」
「後、何が残つてゐるんだ」
「髪も残つてゐるし、胸も頬も額も残つてゐますわ」
「ずい分残つてゐるんだな」
「まだ心臓も胃もあるわ」
「心臓も胃も言ふのか」
「見えないところは言はないの」
「言つてもいゝさ」
「言つてちようだい」
「お前が今言つたのと脳と腸と――腸はまだゞつたな」
「えゝ」
「腸と、それから何んだらう」
「――もういゝわ」
「………」
「どうしたの」
「――もう用がないのだらう」
「あなたはご本を読みながら私と話してゐらつしやるんでせう」
「さうだ」
「今読んでなさるところに何が書いてあるの」
「エリナといふ女が結婚したところだ」
「………」
「………」
「私とあなたは結婚したんでせう――」
「さうだ」
「私、したやうな覚えがないやうな気がするの――」
「で、どうしたんだ」
「あなたはどうなの」
「俺はぼんやりしてゐる」
「ね、―――」
「何んだ」
「どうしてぼんやりしてゐなさるの――」
「あてゝ呉れ」
「あなたはS子さんへ手紙をあげたんでしよ、
 遊びに来るやうにつて――」
「空想か、ほんとのことなのか」
「ね、私とS子さんをあなたはどんな風にくらべるの――」
「くらべるつて、どうするんだ」
「ね、私の眼とS子さんの眼とどつちがお好きなの」
「女に眼がないと可笑しいか」
「どうして、そんなことをおつしやるの」
「なければ、お前の眼とS子の眼をくらべなくともいゝからだ」
「それぢや鼻は」
「鼻も同じことだ」
「あなたは、私とS子さんに眼と鼻がなくともいゝとおつしやるの」
「さあ、――」
「私に相談なんかなさらずにご自分でお考へなさい――」
「お前のいいやうにしやう」
「ね、―――」
「何んだ」
「私この頃自分が何時死ぬかわからないやうな気がするの――」
「それで――」
「私死にたくないわ、だから死ぬやうなことがあつても、
 何処へも行かないつもりなの」
「死ぬやうなことがあつても、何処へも行かないつもりつて何んのことなんだ」
「――あなたの書斎に来てゐたいと思つてゐるの」
「――書斎に来てどうするんだ」
「あなたを見てゐるの」
「俺を見てゐるのか」
「いや―――」
「俺からはお前が見えないんだろ」
「時々見えるやうにするわ」
「それで、お前と俺は話でもするのか」
「えゝ、話もしてみるわ」
「でも、そのときはお前は幽霊なのだな」
「怖い――」
「さあ――」
「幽霊になるのはいやね――」
「お前、自分で怖いんだろ」
「あなたが怖がつて、逃げたりなさると困るわ」
「可笑しいな」
「だつて、幽霊つてほんとにあるんでしよ」
「お前に幽霊になる自信があるんだろ」
「でも見た人がゐるわ」
「お前はないのか」
「祖母さんが死んだとき見たやうな気がするわ」
「見たやうな気つてどんなことだ」
「障子のかげのところへ何か、来たの――」
「………」
「祖母さんは私を一番可愛がつて呉れたのよ。
 今だつて眼をつぶると、祖母さんの笑つてゐる顔が見えるわ」
「それが幽霊なのか」
「ね、―――」
「何んだ」
「ひやかさないで」
「ひやかしたか」
「知らないわ、眠つていゝ」
「いゝよ」

「ね、―――」
「何んだ」
「何時も、私とあなたとゞちらが先に眠るのかしら」
「お前が先に眠るよ」
「あなたと私と、ね、あなたと私とは夫婦つていふんでしよ」
「………」
「私、夫婦つていふ言葉嫌ひなの、私が夫婦のうちの一人だといふのが嫌なの」
「それで、何が好きなんだ」
「妻と夫といふのがいいわ」
「………」
「ね、―――」
「何んだ」
「電燈を明るくしていゝ」
「どうするんだ」
「明るくしたくなつたの」
「………」
「ね、―――」
「何んだ」
「まぶしくない」
「まぶしいよ」
「あなた眼をつぶつてゐるの」
「あいたりつぶつたりしてゐる」
「ね、―――こつち向いて呉れない」
「どうするんだ」
「顔が見たいの」
「顔が見たいのか」
「眼なんかつぶらないで私の顔を見て――」
「お前眠くないのか」
「眠くないわ」
「先に眠つてもいゝかい」
「いゝわ、眠るのを見てあげるわ」
「ぢや、さよなら――」
「ね、―――」
「何んだ」
「もう少し眠らないで、そして一緒に眠りたいわ」
「………」
「ね、―――」
「………」
「ね、モシモシ――モシモシ――電話よ、ベルのかはりに耳をひつぱるわよ」
「………」
「モシモシ――モシモシ」
「お話中だ」
「誰れとなの――」
「S子さんと――」
「まあ、モシモシ――モシモシ、ね、モシモシ、またお話中なの」
「まだ、――」
「ね、そんなことを言ふと、あなた今晩S子さんの夢を見るわ」
「いゝな」
「よくないわ――あなたは何時かお話になつたやうに、
 夢で接吻なんかするんでしよ」
「誰れと――」
「誰れとでもなさるんでしよ――」
「夢だもの」
「だつて、心に思つてゐなさるから……」
「どうしたんだ、泣きさうにならなくたつていゝよ」
「泣きさうになんかなつてゐませんわ」
「………」
「………」
「ね、―――眠らないで」
「ぢあ、顔を見てやらう」
「いや、顔を見ないで――」
「………」
「電燈をま暗に消して――」
「………」
「あなた――」
「何んだ――」
「うそでしよ」
「何が――」
「……今の話がみんな」
「うそだ」
「ほんとうにうそだわね」
「ほんとうにうそだ」
「ね、うそでなかつたら私どうすればいいの」
「………」
「あなたは」
「俺かい、俺はどうにもならない」
「私だけがどうにかなるの――」
「………」
「ね、あなたはほんとうに私を好きなんでしよ」
「………」
「また眠つてしまつたの――」
「眠つた」
「耳をひつぱつてもいゝ」
「又、電話か」
「私と電話をして、ね」
「お前と――」
「えゝ、してみたいわ」
「………」
「ね、私からかけるわ、モシモシ――」





「ねえ、まだ、起きてる?」
「うん、起きてる」
 いい加減に寝なさい、恋人たち。




 「眼が見えない」「夜の向ふに広い海のある夢を見た」「夜がさみしい」「夢」「雨が降る」、『雨になる朝』、誠志堂書店刊、昭和4年5月
 「夜が重い」、「亜」28号、昭和2年3月
 「話(小説)」、「詩神」第3巻第12号、昭和2年12月