中原中也のなんだかやけくそな詩



 中原中也は、「月夜のボタン」などリリカルな詩で知られているし、教科書に掲載されている顔写真もカッコいいということで、女子人気が高い詩人だと思うのだけど、実際には、めちゃくちゃな性格で、文学仲間に対しては口に泡を飛ばして相手を攻撃するようなタイプだったようだ。顔はよくても、あの性格ではあまりモテなかったのではないだろうか。
 で、東京での文学生活では一度も定職に就いておらず、親の仕送りが頼りだったようで、父は医者(軍医)だったりする。お坊ちゃんなのだ。長男なので家の跡取りとして期待されたようだけど、本人はそういう性格なので、実家とはいい関係のはずもなく……となると、これはおそらく「オレら」とよく似ている。引きこもりやニートといった穀潰しと、2ちゃんねらー的感性を共有しているはずだ。


 で、今日は、中也の「そういう詩」を紹介してみたい。



わが半生




 私は随分苦労して来た。
 それがどうした苦労であつたか、
 語ろうなぞとはつゆさへ思はぬ。
 またその苦労が果して価値の
 あつたものかなかつたものか、
 そんなことなぞ考へてもみぬ。


 とにかく私は苦労して来た。
 苦労して来たことであつた!
 そして、今、此処、机の前の、
 自分を見出すばつかりだ。
 じつと手を出し眺めるほどの
 ことしか私は出来ないのだ。


 外では今宵、木の葉がそよぐ。
 はるかな気持ちの、春の宵だ。
 そして私は、静かに死ぬる、
 坐つたまんまで、死んでゆくのだ。



 「とにかく私は苦労して来た。/苦労して来たことであつた!」という心の叫びが、非常によくわかる。いや、ぼくもとにかく苦労して来たことであったのだよっ! いや、まじでっ!
 けれど、「じゃあ、どんな苦労を?」と言われても、特にこれといった業績があるわけではないので、「それがどうした苦労であつたか、/語ろうなぞとはつゆさへ思はぬ。」とか、「またその苦労が果して価値の/あつたものかなかつたものか、/そんなことなぞ考へてもみぬ。」とか強がってみせるという。子どもの強がりですね、これ。自慢できることがあれば、どんどん苦労の内実を語るんでしょう。人ってそういうものだ。
 「そして、今、此処、机の前の、/自分を見出すばつかりだ。/じつと手を出し眺めるほどの/ことしか私は出来ないのだ。」は、何もできないいまの自分の無力さ、不甲斐なさをを苦いものとして噛みしめているわけで、悲しいですね。
 最後の行「そして私は、静かに死ぬる、/坐つたまんまで、死んでゆくのだ。」は、オレはこんな風にこの世で何事もなさずに死んでいくのか……という諦念ですね。この気持ちも本当によくわかります。





はるかぜ




 あゝ、家が建つ家が建つ。
 僕の家ではないけれど。
   空は曇つてはなぐもり。
   風のすこしく荒い日に。


 あゝ、家が建つ家が建つ。
 僕の家ではないけれど。
   部屋にゐるのは憂鬱で、
   出掛けるあてもみつからぬ。


 あゝ、家が建つ家が建つ。
 僕の家ではないけれど。
   鉋の音は春風に、
   散つて名残はとめませぬ。


   風吹く今日の春の日に
   あゝ、家が建つ家が建つ。



 「あゝ、家が建つ家が建つ。/僕の家ではないけれど。」のリフレインが、自嘲的で笑ってしまう。現代でいえば、「今年は企業の採用多いみたいだよ。オレには関係ないけど」とか、「最近、オタクがモテてるらしいよ。オレはモテないけど」みたいな感じだろうか。
 ぼくは同学年はもう家庭を持って、子どもがいる年齢なわけだけど、地元は一戸建ての比率が全国でもかなり高い地域なので、同級生が一戸建ての家を建てていてもおかしくない。そうすると、「家が建つ建つ家が建つ、僕の家ではないけれど……」みたいな気持ちになるかなあ、と。
 こちとら、「部屋にゐるのは憂鬱で、/出掛けるあてもみつからぬ。」、行くところだってないのにさ、という感じで。
 嫉妬なんだけど、自分の不甲斐なさに対する自嘲の意識もあるから、もうやけくそなんですよね。自分の不甲斐なさを思えば、自分と他人を比較して、他人を嫉妬する気持ちにもならない。いや、嫉妬の思いはあるんだけど、そのことをあまり意識に上らせたくない。なので、「風吹く今日の春の日に/あゝ、家が建つ家が建つ。」と、韜晦して、ただ詠嘆するしかないという。
 嫉妬といえば、石川啄木の短歌に、「友がみな我よりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ」というのもありますね。





残暑




 畳の上に、寝ころぼう、
 蠅はブンブン 唸つてる
 畳はもはや 黄色くなつたと
 今朝がた 誰かが云つてゐたつけ


 それやこれやと とりとめもなく
 僕の頭に 記憶は浮かび
 浮かぶがまゝに 浮かべてゐるうち
 いつしか 僕は眠つてゐたのだ


 覚めたのは 夕方ちかく
 まだかなかなは 啼いていたけれど
 樹々の梢は 陽を受けてたけど、
 僕は庭木に 打水やつた


 打水が、樹々の下枝の葉の尖に
 光つてゐるのをいつまでも、僕は見てゐた



 残暑の厳しい一日を怠惰にすごしている様子を歌った詩。
 なんだかとても暇そうなんですけど、実は「僕」の中にはものすごくいろんな思いが渦巻いていると思いますね。けだるい一日を過ごしながら、憂鬱や鬱屈、倦怠といった気分を感じ、あるいは過去に遭遇した人々や体験を思い出しているといったときってあるじゃないですか。
 だから、直接的には語っていないのだけど、読めば「僕」が意外と真剣に思いをめぐらした一日をすごしたことは伝わるんじゃないかと。




 
春日狂想




   1


 愛するものが死んだ時には、
 自殺しなけあなりません。


 愛するものが死んだ時には、
 それより他に、方法がない。


 けれどもそれでも、業(?)が深くて、
 なほもながらふことともなつたら、


 奉仕の気持に、なることなんです。
 奉仕の気持に、なることなんです。


 愛するものは、死んだのですから、
 たしかにそれは、死んだのですから、


 もはやどうにも、ならぬのですから、
 そのもののために、そのもののために、


 奉仕の気持に、ならなけあならない。
 奉仕の気持に、ならなけあならない。


   2


 奉仕の気持になりはなったが、
 さて格別の、ことも出来ない。


 そこで以前より、本なら熟読。
 そこで以前より、人には丁寧。


 テムポ正しき散歩をなして
 麦稈真田(ばくかんさなだ)を敬虔に編み――


 まるでこれでは、玩具(おもちや)の兵隊、
 まるでこれでは、毎日、日曜。


 神社の日向を、ゆるゆる歩み、
 知人に遇へば、につこり致し、


 飴売爺々と、仲よしになり、
 鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、


 まぶしくなつたら、日蔭に這入(はひ)り、
 そこで地面や草木を見直す。


 苔はまことに、ひんやりいたし、
 いはうやうなき、今日の麗日。


 参詣人等もぞろぞろ歩き、
 わたしは、なんにも腹が立たない。


      (まことに人生、一瞬の夢、
      ゴム風船の、美しさかな。)


 空に昇つて、光つて、消えて――
 やあ、今日は、御機嫌いかが。


 久しぶりだね、その後どうです。
 そこらの何処かで、お茶でも飲みましよ。


 勇んで茶店に這入りはすれど、
 ところで話は、とかくないもの。


 煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
 名状しがたい覚悟をなして、――


 戸外はまことに賑やかなこと!
 ――ではまたそのうち、奥さんによろしく、


 外国に行つたら、たよりを下さい。
 あんまりお酒は、飲まんがいいよ。


 馬車も通れば、電車も通る。
 まことに人生、花嫁御寮。


 まぶしく、美しく、はた俯いて、
 話をさせたら、でもうんざりか?


 それでも心をポーッとさせる、
 まことに、人生、花嫁御寮。


     3


 ではみなさん、
 喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
 テムポ正しく、握手をしませう。


 つまり、我等に欠けてるものは、
 実直なんぞと、心得まして。


 ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
 テムポ正しく、握手をしませう。





 「愛するものが死んだ時には、/自殺しなけあなりません。」は、惹かれるけれど、今回はスルー。それはきっかけにすぎなくて、この詩の本領は「奉仕の気持」になったと称するその後のふてくされぶりにあると思う。
 なんでもいい。とにかく悪ガキライフには煮詰まったわけですよ。で、今後は自分勝手な生き方はやめて、社会のために、他人のために役立つような生き方をしなければなりませんと。世間はそういう無言の圧力をかけてくるし、「愛するものが死ぬ」という大きな出来事を体験して、自分でもそうしなきゃならないのかなあ、という気持ちには一応なったわけです。


 けれど、「そこで以前より、本なら熟読。/そこで以前より、人には丁寧。」、「テムポ正しき散歩をなして/麦稈真田(ばくかんさなだ)を敬虔に編み――」とがんばってはみたものの、「まるでこれでは、玩具の兵隊、/まるでこれでは、毎日、日曜。」、違和感がある。
 そして、後半、神社のお祭りに出掛けて、旧知の人物に出会って、「やあ、今日は、御機嫌いかが。/久しぶりだね、その後どうです。/そこらの何処かで、お茶でも飲みましよ。」ということになって、喫茶店に入ってみたはいいけれど、「ところで話は、とかくないもの。/煙草なんぞを、くさくさ吹かし、/名状しがたい覚悟をなして、――/戸外はまことに賑やかなこと!/――ではまたそのうち、奥さんによろしく、」、空疎な挨拶を交わすばかり。一向つまらん。
 「馬車も通れば、電車も通る。/まことに人生、花嫁御寮。」、「それでも心をポーッとさせる、/まことに、人生、花嫁御寮。」は、いやー、人生って楽しいねえっ! ほんと最高っ! というこれは完全に皮肉。死ぬほどつまんねーよ、楽しそうにしてるけど、いいのか、おまえらはこんなんで? とふてくされている。


 そして、結びとなる。「ではみなさん、/喜び過ぎず悲しみ過ぎず、/テムポ正しく、握手をしませう。」、「つまり、我等に欠けてるものは、/実直なんぞと、心得まして。」、「ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――/テムポ正しく、握手をしませう。」。世間はテンポ正しく毎日の生活を送っているけれど、オレは全然世間とテンポを合わせられねーよ。でも、世間は合わせられないヤツを生きさせてくれないから、合わせるしかないんだよねー。はいはい、一、二! 一、二! みたいな感じなんではないかと。
 しかしながら、「つまり、我等に欠けてるものは、/実直なんぞと、心得まして。」というのは、2ちゃんねらー的な性格をどこかに持つ「オレら」には、まったくその通りの指摘で、いや、本当に、なんで「オレら」には「実直さ」が欠けてるんですかね……。
 このあたりからは、「まあ、オレらもたいがいだけどね┐(´ー`)┌」という中也の自嘲の声が聞こえてくるような気がします。