映画も一線を越える―ニール・ジョーダン『ブレイブ ワン』



ブレイブ ワン [UMD]

ブレイブ ワン [UMD]



 主演は、ジョディ・フォスター
 ラジオDJエリカ・ベインは、婚約者とふたりで公園を散歩中に暴漢に襲われて、突然婚約者を失ってしまう。喪失感で自殺さえ考えたエリカだったが、街で野ばなしになっている悪漢たちを、自殺用に購入した銃で処刑していくことを決意し、次々とニューヨークに蔓延る悪漢どもを処刑していく。同じ銃を使っていたことから存在が知られるようになると、「彼」は一躍ニューヨークで脚光を浴びるが、街の声は賛否両論。エリカと親しくなったショーン・マーサー刑事は、犯人の正体はエリカではないかと感づくのだが……。
 というわけで、テーマは、公が対処できない「悪」に対する私的制裁の是非。作中でエリカが処刑する悪事・悪人たちは、そこまでやる/殺す必要はなかったのではないか、と感じられるケースもあり、「行きすぎ」「過剰」という理由で、観客が完全には感情移入できないダーク・ヒーローとなっているように思う。「必殺仕事人」のようにすっきりしているわけではなくて、どちらかといえば、『DEATH NOTE』の最初の時点でキラがやろうとしていたことに近い。キラは、すぐに「自己防衛のためには無実の人間を殺すのもやむなし」とキラ自身が「悪」の暴走を開始してしまうが、『ブレイブ ワン』は、『DEATH NOTE』が置き去りにしたこのテーマを突き詰めて考えた映画といえそうだ。
 この辺りから「ネタばれ注意!」の記述に入っていくので未見かつ先入観をもたないで見たい人は読まないようにしてほしいのだけど、ところで、この間の『トップランナー』で桜庭一樹は、自分は必ず作中に「普通の人」を入れておくのだ、ということを言っていた。『私の男』にせよ、桜庭作品は極端なキャラクターを描くことが多いのだけど、読者が感情移入できる「普通の人」を入れておくことで、作品の世界は読者に理解しやすいものになる、というわけだ。(桜庭はこの話をするのに、「シャーロック・ホームズ」シリーズの話を例にしていたが、となれば、ホームズという奇矯な天才を描くために「普通人」のワトソンを設定しているのだ、という話をするのかな、と思ったら、「ホームズもワトソンもおじさんで、少女時代のわたしには感情移入できない存在だったので、下宿管理人のハドソン夫人を若い女の子ということにして、ホームズワールドを『女の子がかいま見る世界』として受容していた」とのコト。「らしい」なあ。さすがだw)
 で、『ブレイブ ワン』の場合、観客は突っ走るエリカに半分しか感情移入できないので、他に感情移入できるキャラクターを見いだすことで安心して映画を見ることができるわけだけど、ラストで突然梯子を外されてしまう。そして、そのために観客はとても居心地の悪い状態に置かれてしまう。それまでは安心して映画を見ていたのに、突然突き放されてしまって、非常に不安で、落ち着かない気分にされてしまうのだ。え? そりゃそうかもしれないけど、でもそれでいいの?
 しかも、そのことによって、映画の中にひとつの極端な考え方を相対化する視線がまったくなくなってしまうので、観客としては作り手の倫理観さえ疑ってしまう。この作品の「定型の踏み外し方」は、従来の映画が踏み外さなかった枠を踏み外しており、ヒロインが「一線を越えている」(The brave one=勇気ある一歩)のと同時に、映画もまた「一線を越えている」ので、観客にそういう疑惑を抱かせる。この人たちは本当にこういう考え方をしているのだろうか? だとしたら、もしかしたら「今」はそういう倫理観の方が徐々に浸透しはじめているのでは? 人によってはそういった不安さえ感じてしまうのではないかと思うのだけど、では、実際には観客はどういう風に受け止めたのだろうか?
 2chは偏ってるコトが多いのでw、Yahoo!映画の作品ユーザープレビューに目を通してみた。



・賛否両論の結末ですが、ぼくは、文句なしに【是】と認めたいというのが本音です。非難されるモラリストの方も多くいらっしゃるでしょうが、ぼくは、すがすがしい感覚を味わえました。


・観客が最も望むラストなんじゃないかと、思いました。


・残念ながら、ラストは突然ハリウッドらしい終わり方になってしまい、ちょっと肩透かし(ここだけ突然笑いをとる…苦笑)。その点だけが惜しい。


ジョディ・フォスター演じる被害者の論理は、法律や一般常識で語る領域をはるかに超えていることが描写され、極めて説得力があります。結果としてそれが殺人という行為となって体現されていることにすごく共感を覚えました。それどころか、快感さえ感じたと言わざるをえません。


・誰もがいつでも犯罪被害者になってしまう可能性のある世界に生きてるってことを認識して自分を自分で守らなければいけない。
 悲しいけどそれが現実かな。


・だけど、敢えて反対する。この結末には・・。


・恋人を殺されて復讐をする。
 たったこれだけのことなんだけど、ジョディの心理描写が素晴らしく、けっこうのめり込んで見てしまいました。アメリカの抱える、銃の問題を正面からとらえてるのかなって思います。
 しかし、銃社会を正当化しているアメリカ人って、馬鹿なんじゃない?


・ジョディ演じた主人公の女性の気持ち、分からない事もないですが…行動に行き過ぎた感が多々あり感情移入出来ずです。


・ラストはひねりすぎたのか果たして狙いなのか。映画の価値がやや下がった気がする。


・混乱させる終わり方にしたいにしてもあれはないよなあ。


・この映画を観て、彼女の報復、正義の裁きがいいか悪いかではなく「銃」という道具を作ってしまった人間はけっしてそれを使わずにはいられないということ。それを使わずには終われないのが人間だということを示している。


・きれいごとで終わらない。
 自分に置き換えて考えてしまう。


・自分は、問題提起の作品として、多くのことを考えさせられましたが、結局、結論は出せませんでした。


・しかしラストはなあ・・。たぶん意見が相当あるとおもいますけど
 で、ジョディ・フォスターはあれからどうするのでしょう?


・終わり方は賛否分かれると思います。
 でも、私はこの終わり方を望んでいたのでGOODでした。


・この映画を見て気分爽快です。
 殺された奴らにざまあみろと叫んでしまった。
 今の私の気分にぴったりマッチした映画でした。


・しかしラストは確かに正義が勝つ展開で見ていて気分は悪くないですが、それでいいのかなと感じました。


・映画の内容的には悪くないと思いますが、あのエンディングはどうなんでしょう?これでいいの??


・ラストシーンは日本人には受け入れがたい部分もあるんじゃなかろうか?
 それとも、最近の日本人は欧米化(苦笑)して、このラストに違和感を感じないのだろうか?


・内容も展開が心地よい流れで、終わり方もスマートでした。


銃社会ならでの復讐劇映画的には良いかもしれないが賛否分かれるのでは?
 私的には、気持ちは賛成スッキリ、現実的には日本の社会では無理かな


「このラストはイカンやろ〜〜〜!?」と思わず声にだして言ってしまいました…(ガックシ…)


・許せますか?彼女の選択…。
 というキャッチコピーから主人公がある特異な決断をするのかなと思っていました。
 でも…。
 僕としては、「許せます」としかいいようがないあっけない幕切れ。


・私には重すぎてなんか気持ち悪くなりました。
 悪い奴らを撃ち殺していったからといっても爽快感は全く無く、社会的な映画と言うには最後がぶっ飛びすぎて、後味の悪〜い映画でした。


・私的には多くこの手の映画やドラマでは最後は犯人を殺せずに警察の手に委ねる結末が多く逆にフラストレーションがたまります.映画なんだから昔の市中引き回しの上拷問なんていう終わり方もありなのでは?


・ラストは、自分の周りでは、『あれですっきりした!』という意見もけっこう多いのですが、自分的には、(中略)観終わった後に、頭の中が疑問でいっぱいになりました。



 280件中140件くらいざっと目を通したレビューの中から抜いてみたのだけど、こうして見ると感じ方はそれぞれで(あえて肯定派と否定派に分けません)、であれば、それは、この映画は、観客を巧みに洗脳するプロパガンダ映画として機能しているのではなく、観客に問いかける問題提起の映画として受容されているというコトなのだから、「こんな映画が作られてるだなんて、現代社会は倫理的な感覚が壊れてはじめている!」なんてオーバーな危機感は持つ必要はないのだろうと思う。(まあ、ちょっと不安になるレビューも多いのだけど、肯定派の方はキラぶってるようなトコロもあり。賛否両論ありうることはみんな認識しているわけだし)
 「見る側に挑んでくるような作品」というレビューが、ぼくの受け止め方に近いだろうか。この映画については、作り手のコトも、観客のコトも、一応信頼していいんじゃないかな、と思う。


 ちなみに、ジョディ・フォスターは、こう言っている。



Q:最後に映画を観賞した観客に、投げかけたいメッセージはありますか?


A:基本的に観客に委ねたいと思っているの。自分ならエリカと違う反応をする! と思うかもしれないけれど、実際に彼女の立場になってみなければ分からないことだと思うわ。わたしが脚本を読んだときに一番驚いたのは、彼女の選択ね。きっと観客も驚くと思うの。観た人それぞれが感じたまま、それぞれのモラルで映画を楽しんでくれればいいと思うわ。


 『ブレイブ ワン』ジョディ・フォスター単独インタビュー@Yahoo!映画 



 そういうコトだと思う。




許されざる者 [DVD]

許されざる者 [DVD]

 1992年。監督&主演クリント・イーストウッド。「自分の身は自分で守れ」。アメリカの銃社会を肯定するガン・コントロール批判映画(by 加藤幹郎『映画ジャンル論』平凡社)。銃社会批判映画には、マイケル・ムーアドキュメンタリー映画ボウリング・フォー・コロンバイン』(2002年)がある。敵は、全米ライフル協会会長チャールトン・ヘストン(『ベン・ハー』(1959年)や『猿の惑星』(1968年)で主演)。


セブン [DVD]

セブン [DVD]

 1995年。監督デヴィッド・フィンチャー。主演ブラッド・ピットモーガン・フリーマン。『セブン』は、90年代、最初にハリウッド映画の定型を踏み外してみせた映画。以降、サプライズ・エンディングを売りにする映画が続出したわけだけど、シャマランの登場でちょっと違う方向に行ったような気がする。ちなみに、最近の流行は、「ソリッド・シチュエーションもの」(『CUBE』『SAW』『フォーン・ブース』など。冒頭から説明なしに奇妙な状況設定から始まり、なぜそういう状況になったのか深く考える暇もなく、その設定から生み出されていく成り行きを楽しむタイプの映画群を括ったジャンル、といった認識でいいのだろうか)。


 1999年。監督レニー・ハーリン。終盤で観客がこの人は死なないだろうと思っていた登場人物があっさり死んでしまう。シャラマンやタランティーノなど、ハリウッド映画の文法を確信犯的に壊す作家もいるけれど、商業的な映画でありながら、あっさり観客を突き放してみせるような映画が増えている気がする。それで特にメリットがあるというわけでもなくて、ただただ不快で不可解なだけなのだけど、これっていったい何なのだろうか。


アンブレイカブル [DVD]

アンブレイカブル [DVD]

 2000年。監督M・ナイト・シャマラン。主演ブルース・ウィリス。自分が「正義の味方」であることに気づいた主人公は、「悪」を退治するために夜の街を歩き回りはじめる。……って自警団ですか。歴史に学べば、自警団が暴徒化した例は多いんですけどね。


フリージア 第7集 (IKKI COMICS)

フリージア 第7集 (IKKI COMICS)

 松本次郎フリージア』は、『IKKI』連載中の漫画で、2001年から9巻を刊行。敵討ち法が成立し、依頼人(無力な被害者遺族)の代わりに加害者を合法的に処刑しに行く執行代理人たちの活躍を描く。敵討ちの最中に間違って一般人を殺した場合罪にならないとか、私的制裁(復讐&敵討ち)を認めたら社会はめちゃくちゃになっちゃうよ、というのがよくわかる。


DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

 2003年から2006年まで、『週刊少年ジャンプ』で連載。全13巻。夜神月(=キラ)は、最初は、法が裁けない悪を自分が裁くのだ、みたいなコトを言っていた。


扉は閉ざされたまま (ノン・ノベル)

扉は閉ざされたまま (ノン・ノベル)

 2005年。正義や倫理のバランス感覚がどこか歪んでいる人々が主役を演じる石持ミステリの代表作。一部で現代人の倫理感覚の欠落を批評性なしで表出(表現ではなく)している作家として批判されているのだけど、作品というのは読者の受容という文脈も込みで成立しているわけで、批判者が批判できる以上、作品に批評性は認められるだろう。世の中には受け手のツッコミ待ちの作品というのもあるのだ。(たとえば森博嗣とか森博嗣とかw)