島本理生『大きな熊が来る前に、おやすみ。』



大きな熊が来る前に、おやすみ。

大きな熊が来る前に、おやすみ。



 島本理生『大きな熊が来る前に、おやすみ。』(新潮社刊、2007年3月)の表題作が、ユヤたんとの交際を題材にした作品と噂されているとWikipediaに書かれていたので、読んでみた。島本理生特集が組まれている『野生時代』最新号12月号が出たことで初めて知ったのだけど、島本理生は、2006年末に「ユヤたん」こと佐藤友哉と結婚したのだそう(一般に知られるようになったのは、2007年4月頃のよう)。これはめちゃくちゃ驚きだったのだけど、それは、「島本=端正・繊細・穏やか」「佐藤=過剰・ノイジー・ハチャメチャ」と作風があまりにも正反対なので、「ええっ、どんな風に付き合ってるんだ、このふたりは?」というのが想像がつかなかったからで、同じような戸惑いを感じた文学ファンは多いだろうと思う。で、多少なりとも疑問を解消すべく、完全に興味本位な関心から読みはじめたのだけど、読み終えてみると、他人事ではないというか、とても切実なものを感じて、いつのまにか、「作家の私生活」への関心を度外視しても(「作家の私生活」という作品外の要素を視野に入れつつ読めばなおさら)、僕の中で「特別な小説」になっていた。というのは、「大きな熊が来る前に、おやすみ。」(「新潮」2006年1月号)は、同棲生活を送っていながら同棲相手を理解できない、けれど別れようとは思わないし、相手の不透明な部分にこそ惹かれている、という恋愛の形を描いており、恋愛というのは必ずそういう部分を含んでいるものではないか、と思うからだ。
 この小説は、語り手の女性珠実が徹平という男性と同棲生活を始めてしばらく経った時点からスタートするのだけど、珠実にとって徹平は、よく理解できない不透明な部分をもった存在であり、そのことは、当の同棲相手に、「なんか、結婚の予行をしているみたいだな」と言った後で「妙な気分だよ。自分が結婚する可能性なんて考えたこともなかった」と言い放つという、率直さであると同時に無神経さや乱暴さでもあるようなところを見せる場面(14頁)や、それからなんといっても、些細なきっかけから珠実が髪を掴まれて壁に額をぶつけられるという暴力がふるわれる場面(23頁)で強調される。けれど、一方で、珠実は徹平のおそらくそういうトラウマをもつ人間であるがゆえの繊細さや優しさに気づいており、猫を撫でたり、赤ん坊を優しい目で見ている姿を目にして、「徹平の優しさは、すごく自然だね。育ちがいいのかな」と徹平に言ったりもしている(19頁)。珠実の徹平に対する気持ちはなんとなく理解できる。暴力をふるわれたりもするのだけど、彼が優しく育ちがいい「いい子」であることはわかっていて、そこの部分を共有していることによる安心感、居心地のよさがあるということが一つ。もう一つは、おそらく珠実は、徹平が自分自身をコントロールできない、彼自身にとっても不透明な部分を抱えた、「病んだ人間」であることそのものにも惹かれているのではないかと思う。「自分が結婚する可能性なんて考えたこともなかった」という徹平に対して、珠実は次のように言う。



 付き合い始めたばかりで希望と不安の入り混じった時期にこんなことを言われたら普通は絶望するだろうな、と私は他人事みたいに思いつつ、尋ねた
「その、普通の家庭生活を一応肯定しつつも受け入れたくないっていうスタンスは、なんだろうね」
「分からない。ちゃんと考えたことがないから」
「だめだよ。それなら今、ちゃんと考えようよ」
 私が真顔で言うと、彼はちょっと困ったように笑った。


 島本理生『大きな熊が来る前に、おやすみ。』、14頁



 この後、「彼と話していると、今まで自分が当たり前だと思っていたことを簡単に否定されてしまうときがある。相手を好きな分、価値観がぶれる瞬間はいつもはっとする」という箇所が出てくるのだけど、おそらく珠実は徹平の観察者として、誤解を恐れずに言えば、他者である徹平を幾分面白がっている面があると思う。自意識というのは誘蛾灯のようなところがあり、自己コントロール不能な自意識に振り回されている人間というのは、ふわふわした浮薄な自意識しかもたない人間にとって、魅力的な存在なのではないかと思う。この小説は、あることに対する徹平の態度に怒り、部屋を出た珠実が、しばらく悩んだ末に戻ってくると、荒れ果てた部屋の中で蹲っていた徹平が謝り、珠実が甘さを自覚しながら許す場面で終わるのだけど、よく理解できない不透明な部分をもちつつ、優しい「いい子」であることもわかっているので離れられないし、見捨てられない、という珠実の気持ちはよくわかるな、と、やはり浮薄な自意識しかもたない僕は思ったのだ。
 島本理生がこういう恋愛の形を小説にしているというのは、意外だった。恋愛というのは日々「この人は自分とは違う人間なのだ」ということを思い知らされる究極の「他者」体験であって、付き合いを続けていれば、自分の思い通りにはならないことばかりだし、続けるためには、どちらかが我慢するか、お互いに少しずつ妥協するか、しかないものだと思う。島本理生は、基本的には、今までもう十分に恋愛で傷ついてきたし、もう自分勝手な人に振り回されるのは懲り懲りだね、今度はお互いに優しくできる大人同士で一緒にいようね、という、「大人」の配慮や優しさを身に付けた者同士の穏やかな、しかしお互いに相手の核心部分には踏み込まないような、踏み込めばお互いに傷つけ合うことがわかっているので、そこをお互いに避けながら接し続けるような、そういう恋愛の形を書く作家だったと思っていたし、実際本書に収録されている「猫と君のとなり」(書下ろし)はそういうタイプの小説だし、代表作『ナラタージュ』もそういう作品のようだ(未読)。
 けれど、そういうタイプの恋愛小説には嘘があるはずだ。恋愛というのは、多くの場合「僕が君を守ってあげる」と男性側が表明し、女性側がそれを受け入れる形で成立するものなわけだけど(結婚式では「一生君を守る」という新郎の台詞は定番だ)、実際には女性にとってもっとも「敵」になる可能性が高いのは、「僕が君を守る」と言ったはずの当の男性自身だったりする。恋愛・同棲が始まると、DVやモラルハラスメントなど、男性が女性の攻撃者に転じるなんてことはざらにあるわけで、だからなにより「僕」は「僕」から「君」を守らなければならないわけなのだけど、そういう認識をもっている男性は少ないし、それは女性側も同じだ。「猫と君のとなり」に登場する男性は、男性が攻撃者に転じる危険性を熟知した上で「僕が君を守る」と表明する「配慮や優しさを身に付けた大人」として描かれているのだけど、しかしそんな男っているものだろうか? もちろん、「文化系男子」は「傷ついた文化系女子」との間で互いに「『大人』の配慮や優しさをもって接し合う恋愛」を恋愛のイメージとして持っていると思うのだけど、「文化系女子」は自意識過剰で精神的に危うかったりするし、それは「文化系男子」も同じなはずだ。実際に恋愛してみれば、思うようには、大人の配慮や優しさに満ちた恋愛などできないのではないかと思うのだ。
 だから、おそらく現実の恋愛においては、人は「自意識過剰で厄介な相手」と向き合わざるをえないと思うし、恋愛の現場では人はみな自分が相手にとって「自意識過剰で厄介な相手」として現れていることを自覚すべきで、そうでない恋愛など、おそらくない。島本理生『大きな熊が来る前に、おやすみ。』のWeb上にアップされた感想を読んでいて、いちばん胸を衝かれたのは、女性ブロガーの方の「怖かった。とにかく怖かった」という感想なのだけど、おそらく恋愛の場では「怖い」という感情を乗り越えなければならない場面が必ずあるはずだし、それを乗り越えたところに見えてくるものこそが、「恋愛」の名で呼ばれうるものではないかと思うのだ(女性読者が「怖い」と思う気持ちはよくわかるし、DVやモラルハラスメントはもちろん「犯罪」で、被害者は第三者機関に相談した方がいいに決まっているのだけど、「暴力」(心理的な意味で)は、ほぼすべての恋愛の場で起こるものだし、それを避けていては恋愛はできない。また、本書の「クロコダイルの午睡」では、相手を「怖い」と思った瞬間に、信頼関係が崩れて、もう相手と付き合えなくなる男女関係が語られている)。
 冒頭で描かれる珠実と徹平の同棲生活の様子は、なんともかわいらしく、愛おしい。



 となりで徹平はさっきから本を読んでいる。上半身だけ起こし、掛け布団の上に本を置いて、左手でページをめくり、右手は私の手につながれている。あんまり眠れないんだ、子どもの頃からずっと眠りが浅いの。初めて彼が泊まった夜、そう告げてから、彼はいつも眠るときには手をつなぐ。


 島本理生『大きな熊が来る前に、おやすみ。』、9頁



 このとき珠実が感じている幸福感は、おそらく徹平の傷ついている人間であるがゆえの優しさに拠っている。もちろん好きな人に暴力を振るわれるのは淋しいし、つらいことなのだけど、いい面も悪い面も含めてその人であるなら、「それに付き合う体力と気持ちが私にあるかぎり」(68頁)、付き合いつづけるというのも、恋愛の場面では一つのあっていい選択だろうと思う。
 そして、僕は島本理生のよい読者ではないのだけど、ユヤたんとの交際によって、こういう恋愛の形が島本の端正で、繊細で、穏やかな恋愛小説の中に入り込んでくるようになったのだとすれば、それは島本が新たな作品世界を築いていくきっかけになったのではないか、とも思う。




 島本理生さんが不美人であるという事について考えてみる@妄想系乙女の末路
 本谷は美人で自意識過剰な小説を書いているし、不美人で自意識過剰な小説を書いている女性作家には笙野頼子がいる。美人で天然を装った作家は星の数ほどいるけど、今なら綿矢りさかな。しかし綿矢も「素敵な恋愛小説」の書き手というわけではないし、うーん、誰だろう。妄想系乙女さんは、不美人なのに天然で「素敵な恋愛小説」を書いているのが違和感があるという指摘をしているのだけど、オタク男子の僕がどうこう言えることではないし、うかつなことを言えない話題なので、ここは紹介だけにしておきます。今や「島本理生」でググると二番目に出てくる有名エントリでもあるので。


 作家の読書道第49回島本理生@Web本の雑誌 
 島本さんが不美人だとはあまり思わないんですけどね。そりゃ絶世の美人ってわけではないだろうけど。


  「大きな熊が来る前に、おやすみ。」島本理生@本を読む女。改訂版
 「今までの島本作品で一番好きかもしれないな」とあり、多分そうなんだろうな、と思った書評。