『機動戦士ガンダムSEED』『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』における成長ストーリーの失敗



 『機動戦士ガンダムOO』の二回目の放送を見ながら、なんとなく『機動戦士ガンダムSEED』『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』のことを考えてたんですけど、先日某所で話してきたガンダム話のフォローとして、以下にメモしておきます。

 「まじめで正しいロマン主義」を重視せず、極めて現代的な娯楽作品に徹したからこそ、『SEED』という作品は商業的に成功した。
更科修一郎「「リアルロボット」という幻想の夕暮れに」、『僕たちの好きなガンダムSEED』、宝島社、68頁)


 さっきちょっと出た世代間という意味では、僕にしてみれば『SEED』が出る前からなんかジワジワ感じていたことなんだよ。『ガンダム』ってアムロを中心とするストーリーラインのことだと思ってたのに、いつの間にか「ロボット」のことになっちゃったんだ、っていうのは。
岡田斗志夫の発言、『オタク大賞2004』、扶桑社、170頁)



 「まじめで正しいロマン主義」(更科)とは、十代の視聴者が、作中のキャラクターに自己を投影することで、過酷な体験を通じて成長していくキャラクターのストーリーを、「自身の体験として」疑似体験する、その種の作品の傾向を一言で表した言葉だろう。これは近代以降の青少年における普遍的なテーマなのだけど、80年代以降は十代の読者を相手にしなくなった文学(純文学ジャンル)の代わりに、本来は娯楽を身上とするサブカルチャーであるはずのアニメやマンガが引き受けてきた。『エヴァ』は、そうした流れの総決算に位置する作品だったと思う。
 ガンダム・シリーズは、ロマン主義的なテーマをもつアニメとしては典型的な作品群であり、人気が出た理由には、兵器や設定のリアルさや緻密さ、ガンプラの魅力といった要素もたしかにあったと思うけれど、根底にあるのは、アムロやシャアを中心とするキャラクターたちが試練や葛藤を経験して成長していく姿であったり、彼らが織りなすドラマ(人間同士が衝突し葛藤しながら戦っていく)であったはずだ。
 では、『SEED』にはそういうものがないのかというと、それはあったと思う。キラやアスランといった腐女子向けの美形キャラを出していればいいというものではなく、一応彼らの成長を描こうという意志はあったはずだ。しかしそれはうまくいってないようにみえるし、問題はその点だ。なぜか。成長ストーリーの軸になるのは、キラとアスランの相克の物語であり、地球連合ザフトの両陣営に分かれたふたりは、「なぜ戦うのか?(敵陣にいるのか?)」と問いかけあいながら死闘を繰り広げていく。ふたりの対立は互いに僚友を殺し合ったことでピークに達するのだが、しかしこれは派生的な憎しみでしかない。ふたりの対立はそもそもなかば成り行きにすぎないのであって、ふたりの間には実は本質的な対立はない。だから和解できるのだし、本当は互いを大事な存在として想っているにもかかわらず、表面的には争っているので、腐女子的には萌えだということになる。実際、ふたりが互いを罵り合いながら互いの搭乗機がともに全壊するまで戦う中盤の死闘は、視聴者の目には、感情的になっているふたりが「愛おしく」思えてならない。
 ふたりの間に本質的な対立がないのは、『SEED』において最も重要なテーマであるコーディネイターの問題が絡んでこないからだ。『SEED』で描かれる戦争の根底にあるのは、ナチュラル(旧人類)とコーディネイター(遺伝子操作によって誕生した優秀な新人類)の対立だ。だから『SEED』には、コーディネイターという存在に対して、なまなましい、どろどろした感情を抱く人々がきわめて印象的に描かれる。反コーディネイター組織ブルーコスモスのリーダーであるムルタ・アズラエルは、幼い頃からコーディネイターにいじめられるなど、彼らに劣等意識を抱かされて生きてきた人物だし、「カテジナさん再び」と呼ばれるアンチ・ヒロインへと成長する少女フレイ・アルスターは、父をザフト軍に殺されたことをきっかけに、キラやラクスに対してコーディネイター差別発言を繰り返す。仮面の男ラウ・ル・クルーゼもまた終盤にはコーディネイターに対して屈折した感情を抱いていることが明らかになる。『SEED』の中で、なまなましい感情をもち、ドラマを演じていく「強い動機」をもつのは彼らなのに、キラやアスランは彼らと対決せず、コーディネイター同士の/結局のところは和解で終わる/とどのつまりは「痴話喧嘩」に終始する。彼らは所詮エリートであり、優越者たち同士であり、『SEED』の中で最もどろどろしている劣等感にかかわる感情、熱くたぎった部分からずれたポイントでしか対立していない。ふたりの戦いがピンぼけ気味なのはそのためで、『SEED』における戦争ストーリーの軸である「ナチュラル対コーディネイター」の対立が、(キャラの)成長ストーリーの軸である「キラ対アスラン」の対立の根底にない点が、成長ストーリーがうまく機能しなかった原因ではないかと思うのだ(ふたりともモビルスーツ乗りにするためには仕方なかったとは思うが)。
 さらに、キラは、もともと最強のコーディネイターだったところに、アスランとの死闘後、超高性能の機体フリーダムを入手し、ラクスの導きで平和の使者となることで葛藤も解消されてしまって、戦闘では圧倒的な能力差を前提としつつ、相手側のパイロットを殺さずに敵モビルスーツを無力化するという「平和的な戦い方」を行っていく。キラやラクスの聖人君子ぶりは超エリートのみに許されたものにすぎないわけで、見ていてかなり鼻につくものになってしまっているのだけど、こうなるともはやキラの成長は完成の域に達してしまっていて、視聴者は彼のスーパーマンぶりをため息まじりで見ているしかない。超エリートすぎて共感不能なのだ。人間は生きているかぎり迷うし失敗を繰り返すもので、決して「完成」したり悟ったりするものではないはずで、ガンダム・シリーズにしたところで、アムロやシャアは最後まで悟ったりなんてしていない。きわめてなまなましい人間のままで(オールドタイプのままで!)死んでいくわけで、完全無欠なコーディネイターであるキラのキャラクターというのは、ガンダム(1stガンダム逆シャアの流れ)のファンにとっては、やはり認めがたいものなのではないかと思う。
 『SEED DESTINY』では、キラは冒頭から仙人化しており、ゆえにシンという未熟な少年キャラを主人公として登場させたわけだけど、前作である程度悟っていたはずのアスランが、今作ではふたたび迷いの道に踏み込むという不自然な設定によって主役の座を奪われてしまう。中盤では、シンはステラというメンヘル系の女の子(「死ぬ」という言葉が耳に入ると文脈無視で「死んじゃう……。イヤーッ!」と叫びはじめるというw)を介抱しつづけ、ああ、たいへんそうだなあ、という同情と共感の思いを禁じえないのだけど、ステラは途中退場してしまうし、結局シンはラストでは女の子(ルナマリア=「月の聖母」の意)の腕の中で泣くという醜態をさらしている。『SEED DESTINY』で大人になることの苦しみを経験したのは一国の長となったカガリだろうが、カガリにしても『SEED』の方が成長の伸び幅は大きかったと思うし、なにより断然魅力がある。『SEED』のアスランカガリの恋愛ドラマはとても魅力的なものだったけれど(だからアスカガ派の気持ちはよくわかる)、『SEED DESTINY』の恋愛ドラマはあまり魅力的とはいえない。シンはステラ、アスランカガリと結ばれるべきだったと思うが、なんとなく側にいる女性に癒しを求めたといった感じの決着で、まあ「現実の選択もそんなもんだよ」という意味ではリアルなのかもしれない。この点には「大人」の視点を感じる。さらにうがった見方をすれば、シンやアスランが成長しないというのも、「人間なんて本質的には成長しないものだ」という富野的な悪意(監督は福田己津央)が感じられる描写なのかもしれず、もしそうだとしたらそれはキラの聖人君子&スーパーマンぶりと対比されることでよりきわだっているのかもしれない。「キラ以外皆バカ(キラ以外のコーディネイター含む)」というヒエラルキーを絶対的なものとして描き出した、これは実はひどくおそろしい作品かもしれないのだ。
 しかしもしそうだとしたら、キラは逆説的に「空虚な中心」でしかないと思う。視聴者はキラという絶対的な存在の周りで苦悩し葛藤するキャラたちのドラマにこそ共感を感じたはずだ。――しかしこういう言い方はあまりに『ガンダムX』的すぎるだろうか(あの的外れなニュータイプ批判!)。視聴者は素直にキラに喝采を送ったのかもしれないし、十代の視聴者が実際のところどんな風に受け止めていたかというのは、僕にはよくわからないし、これは十代のころ『SEED』を見ていた方の本格的な『SEED』論を聞きたいところだ。結局のところ僕はオールドタイプでしかないのだから。




 「機動戦士ガンダムSEED」とはどんなアニメだったのか@ちゆ12歳
 「福田己津央監督の言ってることはめちゃくちゃだ」と指摘。作者の発言を真に受けてはいけません。とりわけ『SEED』の場合は。


 「機動戦士ガンダムSeed Destiny」@カンプグルッペ
 ツッコミを入れつつキャプチャー画像付きでストーリーを紹介。よく読むと誉めるべきところは誉めてます。


 まっとうな批評をしてくれ〜アンチ種から学ぶダメ批評のガイドライン@ネタ置場 
 まあ、当blogも「ダメ批評」を再生産しちゃってない自信はないです。