西尾維新『ニンギョウがニンギョウ』



ニンギョウがニンギョウ (講談社ノベルス)

ニンギョウがニンギョウ (講談社ノベルス)



 「ファウスト」の三羽鴉(舞城・佐藤・西尾)の中では、唯一ライトノベルのフィールドで活動し続けている西尾維新は、もしかしたら舞城や佐藤より文芸誌向きなのではないかと思わせる作。

 妹が23人いて、そのうち17人目の妹が死んでしまったのだけど、彼女が死んだのは今度が4回目で、妹が死ぬたびに私は映画を見に行かなければならない。――そんな、世界の成り立ちが現実に存在するこの世界とは「少し異なる」(もしくは「かなり異なる」)世界を設定しつつ、語り手はそのことにはあまり深くツッコミを入れずに虚構世界の成り立ちを読者に明らかにしていくのだけど、どうやら語り手にとっても常識外のことがどんどん起こっているらしく、しかし読者にはその世界での「常識」の範囲が定かではないという、内田百間および漱石の『夢十夜』風の語りが導入されている。恐らく無意識の中に潜行して自意識を捨象し、意識下に浮遊する断片的なイメージを拾い上げながら、語りの中から物語を紡ぎ出していくイタコ的な創作方法を用いているはずで、「この現実とは異なる成り立ちをもつ世界」を滑らかに語る力のある作家というのは、現代の純文方面を見渡しても、笙野頼子くらいしか思いつかない。

 妹が23人いるというのは、どうやら「妹」萌えらしい西尾にはこだわりがあるらしいながら、わからない向きにはさっぱりわからない願望なのだけど、夢の世界を描く作品であればこそ許される願望充足的な設定で、そのことをもって、「単に願望充足的」とはいえない。『きみとぼくの壊れた世界』がそうであったように、西尾の作品世界では、23人の妹を求めれば23人の妹をもつことのリスクがあることが徹底的に突き詰められる。作中で「私」は実に面倒見よく妹たちの世話をするのだけど、なにやら見ているととても面倒くさそうで、そこまでして妹が欲しいのだろうかと僕などは思うのだけど、例えば、『ニンギョウとニンギョウ』の「私」は欲しいらしい。結果として、西尾ワールドの男の子たちは、「現実に向き合うこと」とは決定的に違うあり方ではあるのだけど、労力としてはそれに劣らぬ、「願望充足的な妄想の結果として現れる『他者』の引き受け」という主題に直面するのだ。それって、ほとんど現実の女の子と付き合う(=女性の自我を引き受ける)ことと同等の重さを、ヴァーチャルな形であれ引き受けることであるわけで、「妹が一杯」という設定がエロゲー的な「本来単に願望充足」な妄想から出てきているはずであるにもかかわらず、なんだかきわめて倫理的な話になっていると思うのだ。

 結末は、ある意味では「作品世界の成り立ちをひっくり返す、大どんでん返し」が待っているのだけど、この結末にショックを受ける読者はまあ少ないはずで、基本的に、この小説は「妹」萌えに共感不能な読者を念頭に置いていないはずだ。もちろん、このどんでん返しの空転も確信犯的なもののはずで、ツッコミとしては「いや、わかんないから(苦笑)」としか言いようがないのだけど、内包された読者に否を突きつけつつ(劇場版『エヴァ』のラストと同等の重さをもつはず)、外延の読者を突き放すことを貫き通した、批評的な結びなのではないかと思う。