三崎亜記『となり町戦争』



となり町戦争

となり町戦争



 現代的な「リアリティーの稀薄さ」を、「まるで戦争らしさが感じられない戦争」を描くことで語った作品であり、戦争や死者がメディアを通じた「数字」としてしか把握できない、「9・11」(または湾岸戦争)以降のリアリティーを捉えた、批評的な作品ということなのだろうと思うのだけど、「現実に触れ得ない」「リアリティーの稀薄さ」というテーマにせよ、となり町との戦争という題材にせよ、文章から伝わってくる感性にせよ、いかにも発想が電通的というか広告代理店的で、 渡部直己の『「電通」文学にまみれて』を思い出してしまった。

 主人公「僕」が戦争への参加を求められて、美人公務員の「香西さん」との同棲生活という「おいしい仕事」(セックス込み)を割り振られるというのは、「ギャルもの」と言われるエロゲー的発想でもあるし、戦後のいわゆる「ハウスキーパー問題」(小林多喜二「党生活者」)の無自覚な踏襲でもある。香西さんは自分の「性」を、共同体のために捧げることにまったく疑問をもたない。戦争なり政治活動なりが女性に「性」の奉仕を求めるということに対する緊張感が、従軍慰安婦問題などの問題があるにもかかわらずまったくなく、「僕」はただひたすら香西さんを崇拝し、「美人公務員萌え」に浸るばかりなのだ。戦争のリアルさを感じられない「僕」と対照的な存在として香西さんのような女性を置かなければならなかったという意図なのだろうが、女性の「性」を搾取する構造でしか文学で戦争が描けない状況はいったいいつまで続くのか。この一点だけでも、この作品の「批評性」には疑問があると言わざるをえない。

 結末の情緒性もかなり疑問で、村上春樹程度の抑制もないというのは、何度も言うように、エロゲー的という意味で現代的なのかもしれないが、稚拙な印象が残る。