二つの「ぐるり」―映画『ぐるりのこと。』



ぐるりのこと。 [DVD]

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 映画『ぐるりのこと』(監督橋口亮輔、2008)は、映画公開当時は二の足を踏んでしまって、観に行けなかった映画だ。橋口監督の前作『ハッシュ!』(2001)が従来の家族とは異なる新しい人と人の関係のあり方を模索する試みだったにもかかわらず、今作ではポスターが中年夫婦の結婚式の姿が描かれ、夫婦の絆や希望といったことがテーマとして宣伝されていたので、テーマ的に後退してしまったように感じられたからだ。


 ところが、実際に観てみると、この映画において夫婦の絆は極めて困難なものとして描かれている。主人公カナオの妻翔子は流産してから鬱病となり、ちょっとしたことで夫カナオを責めるようになる。一度口喧嘩が始まると翔子は適当なところで鉾を収めようとせず、どんどん怒りをエスカレートさせていき、ヒステリーを起こすところまで行かなければ収まらない。「どうして君は……」とカナオは何度も言う。言い分はわかる。しかしわざわざ毎晩のように事を荒立てて喧嘩しなければならない理由はわからない。カナオにとって翔子は理解不能な他者となるのだ。
 一方で、カナオは法定画家として、幼女連続誘拐殺人事件、地下鉄サリン事件、児童無差別殺傷事件など、平成という時代を象徴する陰惨な事件の裁判に立ち会っていく。映画のタイトルである「ぐるりのこと。」とは、カナオと翔子を取り巻く周囲の社会としての「小さなぐるり」と、より大きな現代社会状況という意味での「大きなぐるり」という、二つの意味で解釈できる。


 さて、映画の読み筋は二つあると思う。映画において翔子は次第に落ち着きを取り戻し、カナオは親族との関係を和解させていく。つまり、社会状況としての「大きなぐるり」が荒廃をいっそう深めていくこととは対照的に、カナオの周囲の小社会としての「小さなぐるり」の方は平穏な日常の時間を取り戻していくのであり、映画はカナオ夫婦のささやかな希望を描いているのだが、それは「小さなぐるり」が「大きなぐるり」とは接点を持たない、閉ざされたものである限りにおいて成立するという読み筋は十分ありえるだろう。


 しかし、そうした読み筋は取れないと思う。そう思うきっかけとなったのは、この映画においてお受験殺人事件が取り上げられていることだ。被害児童の母親のちょっとした言動に過剰に傷つき、被害妄想を積み重ねていった加害女性の主婦は明らかに精神的に失調している状態にあったはずであり、法廷で彼女を見るカナオは、映画の中でいちいちそうしたことを言うわけではないが、翔子のことを思わなかったはずはない。翔子だってあれだけ精神的に不安定な状態だったのだから、いつこういうことを起こしてもおかしくなかった。もしかしたら自分が殺されることで、翔子は法廷に立っていたかもしれない。被告席に座っていたのは翔子だったかもしれないのだ。
 平穏な日常を送っている(はず)の市井に生きるわれわれと、社会的な大事件の主役となった犯罪者たちを分ける境界というのは、実はきわめて脆いものにすぎない。わたしたちはいつ「あちら側」に立つことになるか、わかったものではないのだ*1。そのことを感じ取れるかどうかは、この映画を見る上での大きなポイントだろうと思う。


 この点は実は見落としてしまいかねないポイントだと思うのだ。この映画は寡黙な映画である。カナオは、自分の感情をことさらに喚き立てたり、言葉にして人に説明するような人物ではなく、一見、飄々とした佇まいで、重い出来事も受け流して生きていくように見える人物として設定されているために、カナオの思いはわかりやすい言葉で観客に説明されることはない。また、 カナオは法定画家として淡々と被告たちの絵を描き続けるが、それらは対象を忠実に写し取ったデッサンであり*2、そこにカナオの個人的な解釈は入っていないように見える。このこともカナオの思いを見えにくくしている原因の一つだろう。
 しかし、おそらくカナオは陰惨な事件の痛みをその都度しっかり受け止めている。被害者の思いはもちろん、犯罪者たちがなぜこうなってしまったのかということも、カナオは受け止めて、考えている。それは翔子のことについても言えることだ。そのことを、映画では、カナオを演じるリリー・フランキーの絶妙としか言いようがない表情のニュアンスで伝えている。カナオは、何も言わないし、感情的になることもなく、淡々と毎日の仕事をこなし、生活を送っていくように見えるが、実は陰惨な事件の痛みや翔子の痛みを受け止めていることが伝わってくるのだ。


 起こってしまった陰惨な事件も、回復できない翔子の痛みも、カナオにはどうしようもないことだし、おそらくどうやっても解決することではない。しかし、意識から捨象してしまうわけにも行かないし、受け止めて、しかし受け止めたことで自分まで耐えられなくなったりしないように、ある程度は飄々としたスタンスで受け流しつつ日常を送っていくしかない……。痛みを淡々と受け止めて生きるというこうしたカナオの生き方は、現代に生きる人々のほとんどが強いられているものなのではないだろうか。
 そういうことを考えさせる『ぐるりのこと。』は本当にいい映画だと思うし、見てない方はぜひ見て欲しい。



*1:そのことは、映画では、法廷の場面において、被告席と傍聴席の境界が曖昧な空間として描かれることによって映像的に示されている。記者たちが判決が出た瞬間我先にと走り出す場面や、被告が被害者遺族に暴言を吐く場面など、法廷は、境界が曖昧な運動の空間として、ときに(法廷であるにもかかわらず/あろうことか!)秩序が攪乱される反転可能性(「ぐるり」と反転!)を秘めた空間として描かれている。

*2:一度だけ例外あり。