黒澤明を観る(3)―『夢』



夢 [DVD]

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 黒澤明の映画『夢』(1990)を観た。久しぶりに背筋に鳥肌が立った。これはすごいよ……。


 黒澤明を観る(1)黒澤明を観る(2)で続けてきた、黒澤映画をすべて観てしまおう、という試みは、全31本中26本のところまで来たのだけど、ここまで来れば、おおよそ黒澤映画の全体像は把握できたのではないかという手ごたえがある。
 黒澤についてのシンポジウムでも確認されていたが、黒澤のフィルモグラフィーは第一期が戦前の6本、戦後は60年代後半の中断期間を挟んで、第二期の5〜60年代が19本、第三期の70年以降が6本という三期に分かれており、第三期が本数も多く、内容もおもしろく充実していると評価が高いのだけど、とりわけ、『羅生門』(1950)、『生きる』(1952)、『七人の侍』(1954)といった50年代前半の傑作群は娯楽映画として本当におもしろく、映画としてもきわめて完成度が高い。黒澤は、これらの作品において、面白いストーリーを巧みに語り、またアクションシーンのダイナミズムや会話のシーンの緊張感で観客を楽しませるという映画の一つの形が完成させている感がある。


 なので、黒澤映画に興味のある方はともかくこの三本から観てほしいと思うのだけど、今日話したいのは、そういう完成された映画を晩年の黒澤が自ら壊していることだ。『夢』(1990)は、「こんな夢を見た」という漱石夢十夜」を引用した字幕を冒頭に置く7本の短編(1本の長さは10〜20分程度)からなる連作短篇集的な映画なのだけど、冒頭の短篇「Sunshine Through The Rain 」は、冒頭、家の門のところで子どもが女中に「こんな日には狐の嫁入りがあるけれど、見れば怖いことになるから見てはいけない」と言われる。で、わずか1分半ほどの前置きの後で、次のようなシーンとなる。





 森の中に入った子どもが、1分55秒のあたりから狐の嫁入りに遭遇するのだけど……明らかにおかしいだろ、これ。お面を被った行列が笛と和太鼓に合わせて様式的な所作で踊りながら進んでいくわけだけど、明らかにおかしい。絶対に変だ。変すぎる。けれど、すごい。ゾクゾクする。
 何がすごいのか? これって明らかにセオリー通りの映画ではなくて、まず登場人物を紹介して、何かの事件が起こり、ストーリーが展開していく、という普通の映画ではない。映画監督は、みんなが驚いたり陶酔したりするような魅力的なシーンを観客に見せてやろうという野望を胸に抱いているものだと思うけど、例えば、アクション映画でも冒頭から終わりまでずっとアクションシーンというわけではない。いきなりアクションシーンが始まったら、なぜ彼らは戦っているのかわけがわからず不安になるはずだ。アクションを見せるのが目的でも、普通はそのアクションシーンはこんな事情があって行われているのだということをストーリーの流れの中で説明するし、それがあって初めて観客は安心してアクションシーンを見ることができる。


 ところが、『夢』では、ほとんど説明がなく、いきなり監督が観客に見せたいのであろうメインの幻想的なシーンが始まってしまうのだ。そのために観客は魅了されつつも、何が起こっているのかわけがわからず、戸惑う。
 夢の体験とはそういうものだと言ってしまえばそれまでなのだけど、黒澤の完成度の高い傑作群や一般的な映画のセオリーを考えると、黒澤はこの映画で、映画の「型」を壊そうとしているんだろうな、と思う。


 北野武は、この映画について、次のように述べている。



「だからテレビで一目盛り上げようと思って自分が何かやったときに黒澤さんの『夢』になってしまうのはヤアだなあと思うわけ(笑)」
 ――(笑)だからそれがいちばん危ないわけじゃないですか。
「危ないなあってさ。本人は目盛り上がったっつうけ周りは『もういいよ』って。『まぁだだよ』じゃなくて『もういいよ』って感じで、これは困るなあと思って」


 北野武『武がたけしを殺す理由』(ロッキング・オン社、2003.9、P135)



 もちろん、武は『夢』がレベルの高いことをやっているのがわかっている。「型」を壊せば大衆との接点を失ってしまうのでそういう風に孤立しちゃうのもねえ、という話をしているのだけど、武の映画の中にも、『Dolls』(2002)や 『TAKESHI'S』(2005) など、意識的に映画の「型」を壊しているものがいくつかあり、『Dolls』については、武はこれは個人的な映画で、誰からも評価されなくてもいいんだ、と述べている。『Dolls』は、心中した男女が秋の紅葉の景色の中をただひたすら歩いていく美しい絵だけで作られたような映画だ。





 また、岩井俊二も、ぼくも以前触れたように、監督自身が観客に見せたいと思っている美しく幻想的な「絵」(シーン/映像)の優先度が高い映画監督であり、90年代半ばには、「映像はきれいなのだけど、ストーリーはつまらない」とか「映画としてはダメだ」といった批判が、PV出身であることと結びつけられてよくなされていた。
 しかし、美しく魅惑的なシーンを優先させる映画が即ダメな映画というわけではない。たしかに一般的な映画のセオリーを無視しているから戸惑う観客は多いだろうが、「映画とはこういうものだ」という思い込みから自由になれさえすれば、いま目にしている映画の美しさに酔うはずだ。


 ぼくは、『夢』や『Dolls』、そして『四月物語』などはとても美しい映画だと思うし、これらをいい映画と言わずにどんな映画をいい映画というのだと思っている。
 ストーリーは語っていないも同然であるにもかかわらず、純粋に絵になるようなシーンの演出だけで観客を魅了してしまうこれらの映画の芸術性は、たしかに映画の「型」を壊すことで実現されているものだと思うけれど、しかし、むしろ「型」にはまっていないこれらの映画の方が、実は映画にとって本質的な演出方法や芸術性にかかわっているのではないか、と思うのだ。


武がたけしを殺す理由

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