空を泳ぐ魚たち/あるいは、「鳥」「犬」「魚」のモチーフをめぐって―押井守『スカイ・クロラ』評(4)






 押井守監督の映画『スカイ・クロラ』(公式ページ)評の四回目です。……いったいどんだけ好きなんだ、どんだけーって感じなんですけど、でも、実際のところ最低もう一本は書きますよ……。


佐藤心押井守における「空」をめぐって」における「鳥」「犬」「魚」のモチーフ
 多くの押井守論の中でも、佐藤心押井守における「空」をめぐって」(『ユリイカ』〈特集*押井守 映像のイノセンス〉、2004.4)は、押井の映画を考える上で、もっとも広い射程を持った優れた論考の一つだと思っている。
 この論考において佐藤は、押井映画に頻出する「鳥」「犬」「魚」という三つの動物モチーフについて、「空」「地上」「水」という空間モチーフとかかわるものとしつつ、これらが「作中の登場人物、すなわち「地上に住まう人間」のポジションに差異をもたらす三タイプの属性として機能している」と述べた上で、その属性を、次のように定式化している。



 「犬」の属性は、主人、現実、組織、物語に従属すること。
 「鳥」の属性は、前者を強いる生の条件から超越すること。
 「魚」の属性は、影や虚像、幽霊として、生の条件を攪乱すること。





 三つの属性について、もう少し詳しく説明されている文章を、佐藤の論考の中から拾ってみる。



 特車二課第二小隊長の後藤(『パトレイバー1』)、公安九課の諜報員バトーに代表されるような組織人の属性が典型的な「犬」だといえる。多少スタンスの違いはあるものの、基本的に彼らは自分が守るべきもの、忠実であるべき何かを裏切らない。


 押井における「空」は、「鳥」のモチーフとかかわって、ある種の超越の場として機能するのだといえる。


 押井作品において「魚」はしばしばあらかさまな虚構として映されるが、それは「魚」が「水」という鏡の世界に住む動物だからだ。





 さらに、詳しく説明すると、「水」の空間は、夢、幻想、虚構の空間ということであるらしい。現実の過酷さに耐えられなくなった者が妄想の世界に逃げ込むときに、鏡の世界が設定されるケースなどを考えればいいだろうか。これは広く見られるものだと思うが、押井の場合は「水」「魚」と関連づけられていることに特徴がある、と理解すればいいのだろうと思う。
 佐藤は、こうした前提を踏まえた上で、押井映画における「人間」は、「犬」であるという現実を捨てようとして、「鳥」になり、「空」の向こう側に超越しようとするのだが、「犬」であることを忘れず、最後には「犬」に戻ってくる存在なのだ、と論じていくのだが、では、『スカイ・クロラ』においては、「鳥」「犬」「魚」のモチーフ、あるいは、「空」「地上」「水」のモチーフは、どのように機能しているのだろうか?


◆『スカイ・クロラ』における「空」と「水」のモチーフ
 『スカイ・クロラ』においても、「空」が超越の場であることは見やすいと思う。ゲームを司る存在といえる「ティーチャー」は、この物語において超越的な存在であり、優一たちにとって「ティーチャー」を倒すことは、この世界を超越することと同義である。キルドレたちは戦闘機乗りであり、「空」で生と死が紙一重の戦闘を戦う存在であるが、これは彼らが唯一リアルな生を実感できる場でもある。
 「水」については、これはパンフレットを読んで初めて気づいたのだけど、娼館は魚をモチーフとしたデザインで埋め尽くされており、優一の相手をするナンバーワンの娼婦フーコは、胸に魚の刺青をしているのだという。娼館は、過酷な現実からひととき逃れるための癒しの場であり、性に溺れることで現実を忘れる夢、幻想、虚構の空間なのだといえるだろう。


 ところで、『スカイ・クロラ』においては、草薙水素もまた「水」に関わる存在であることに気づく。名前に「水」が付くというのも単純なようで重要な要素の一つだと思うのだけど、彼女はガラス越しに外を見るという描写がよく描かれている気がする。窓ガラスに彼女の顔が映り、かつ彼女は外にいる優一であったりを見ている、という描写。結果として、これはぼくの勝手なイメージかもしれないけれど、水素は終始水槽の中にいて、息苦しそうにしているという印象を受ける。また、眼鏡をかけていることそのものも、自己と対象の間に一枚膜を隔てている、ということのように思える。
 また、酒場のトイレで鏡に顔を映して、水で顔を洗い、次に優一の前に現れたときは、眼鏡を外し、口紅をつけているという描写もある。これらのことから、水素は「水」に関連づけられており、フーコと同様に、「水の女」として描かれているように思える。水素もまた夢、幻想、虚構の空間の中にいる存在であり、水素自身が虚構の空間に逃避しており、また、優一が水素という「水の女」に溺れることによって癒される存在でもあるわけだ。


 さらに言えば、優一をめぐって水素と三角関係となるキルドレ三ツ矢碧もまた、「碧」という名前から、「水の女」なのだろうと推測できる。優一の周りの女たちは、みな「水」に関連づけられているわけだ。
 したがって、『スカイ・クロラ』は、世界/組織に従属させられた存在としての「犬」である優一が、「水」の空間における女たちとの関わりにおいて「犬」であるという現実の条件を超越する意志を抱き、「空」での戦いにおいて超越を試みる、というラインで、一応、理解することができるわけだ。


The Sky Crawlers―空を泳ぐ魚たち
 「一応」と書いたのは、以上のような結論に、ぼく自身が納得していないからだ。「一応」、佐藤が導きだした押井映画における動物モチーフの定式を、『スカイ・クロラ』においては、以上のような図式に当てはめることはできると思うのだけど、ぼくが考えた図式からこぼれ落ちているものはおそらく非常に多い。


 それはたとえば、『スカイ・クロラ』というタイトルから始まっている。英語タイトルは「The Sky Crawlers」。つまり、空を泳ぐ魚たち。「空」と「水」、「鳥」と「魚」のモチーフが直結しているわけだ。これは何を意味しているのだろう?
 このことについて、ぼくは、それはおそらく、彼らがある意味ではすでにして超越者であることを意味している、と考えている。にもかかわらず、超越することができない「犬」であるということ、超越することを含めて一つの円環として「閉じている」ことの閉塞性……。ぼくが何を言おうとしているかは、映画を観た読者にはなんとなくわかってもらえるのではないかと思う。


 その他にもいろいろ考えたことはあるのだけど、ここではこれくらいにして、あとは読者が考えてくれればな、と思います。
 あと、佐藤心押井守における「空」をめぐって」は、非常に優れた論考であり、たんに押井映画のみならず、映画や映像文化一般を考える上で広い射程を持ったものだと思うので、一読をオススメしておきます。


ユリイカ2004年4月号 特集=押井守 映像のイノセンス

ユリイカ2004年4月号 特集=押井守 映像のイノセンス