犬が満たしてくれるもの、恋愛が満たしてくれなかったもの―押井守『スカイ・クロラ』評(3)



スカイ・クロラ FLYING BASSET Tシャツ(Lサイズ/モクグレー)

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 押井守監督の映画『スカイ・クロラ』(公式ページ)評、今回は犬と身体について。


◆基地のバセットハウンド
 冒頭の戦闘シーンが終わり、戦闘機が戻ってくると、主人公の雄一を真っ先に迎えるのは、整備士の女性が飼うバセットハウンド犬なのだけど、彼はやたらと人に懐いており、人の周りを嬉しそうに走り回っている姿がとても愛くるしかったりする。
 それでぼくは犬があまりにかわいらしいので笑ってしまったのだけど、というのも、映画の主要キャラクターはみな他人と心から打ち解けることはしないというスタンスで、表面的にはクールさを装っている人物ばかりだからだ。おいおい、犬、浮いてるよ……。
 しかも、そういう人物ばかりが集まった基地において、犬はただひとり元気で愛くるしく、愛情を振りまいているわけなのだけど、それで特に心に孤独を抱え込んだキャラたちが心を癒されるという気配もなく、どうにも犬の愛くるしさが空回りしているように見えたからだ。あはは、無視されてるよ〜。でも、元気だ。かわいいかわいい……という。


◆『イノセンス』における犬の特権的な地位―機械は射精しない
 犬は、前作『イノセンス』(2004)では、もっと特権的な地位を占めていたはずだ。主人公のバトーは、想い人の草薙素子が遠くに行ってしまった後で、しかし彼女のことを思い続けてストイックに生きているのだけど、そうした孤独な日常の中で唯一癒してくれるものが、彼が部屋で飼うバセットハウンド犬だった。
 バトーは、彼が飼う犬専用の餌を買うために遠回りして餌を置いている店に行くほど犬に執着しているし、何より映画の中で、犬が餌を食べ、バトーの膝の上で眠りこける光景を見れば、犬が孤独なバトーの心ににせめてものぬくもりを与える存在であることは明らかだ。


 『イノセンス』で犬に特権的な地位が与えられていたのは、バトーや素子がサイボーグであることとも関係があるだろう。士郎正宗のコミック版『攻殻機動隊』では、素子はサイボーグでありながらむしろ積極的に性的な快楽を楽しむキャラクターなのだが、映画版の素子はおそらく性的快楽を得ることがないサイボーグの身体を持つ女性である。『イノセンス』は、セクソロイドの人形が起こす連続殺人事件を主題としているが、事件の背景には、人間の魂をダビングしセクソロイドに組み込むと反応が良くなり顧客の受けが良くなる、という技術上の問題があった。
 つまり、セックスとは動物がするものであり、機械はセックスしないのだ。機械は射精しないし、性感帯もない。機械は身体を持たないのである。


 バトーと素子がもしその気になったとしても、ふたりはセックスすることはできないし、ゴツゴツした機械の身体がぶつかるだけだ。だから、ふたりの愛は「イノセンス」な純愛(=プラトニック・ラブ)にならざるをえないのだし、そこにある悲しさが漂うのもそのためだ。
 『イノセンス』において犬は、そうした冷たい機械の身体しか持たないサイボーグであるバトーにとって、唯一常に身近に生身の身体のぬくもりを感じさせてくれるものであるがゆえに、特別な存在であるわけだ。


◆不毛な性愛
 『スカイ・クロラ』に登場するキルドレたちは、子どものままで成長しない(=死なない)という遺伝子工学の産物であるにせよ、サイボーグではない。「キルドレ=子ども」と言いつつ、彼らはセックスできるし、娼館で娼婦に性的な行為によって癒されたり、キルドレ同士でセックスし、子どもを産みさえする。キルドレには身体があるのだ。
 ゆえに、キルドレたちは恋愛をすることができる。ここで言う恋愛とは、大人の男女が行うものとしての恋愛のことだ。作中で繰り広げられる恋愛については、『攻殻』や『イノセンス』よりも、『機動警察パトレイバー2 the Movie』(1993)の方がずっと近いだろう。南雲と柘植の関係には、性愛を含む大人の恋愛の気配が濃厚に存在し、南雲に片思いする後藤隊長を含めて、アダルトな三角関係の恋愛模様が展開されていた。


 『スカイ・クロラ』では、ヒロインの草薙水素が、早い段階で雄一のベッドに頬ずりをする場面が描かれており、彼女が身体的なぬくもりを求めていることが明らかにされ、さらに雄一との間に男女の関係を持っていくわけだけれど、しかし、では、『スカイ・クロラ』において、キルドレたちが、男女として抱き合うことで人間の身体のぬくもりを感じ、心を満ち足りたものにすることができたのかというと、それは疑問だ。キルドレたちは何かを欠落させており、結局欠落させたままで終わるという印象が強い。
 水素は、映画において、犬と同じように、他人に対して無償の信頼を示す存在である自分の娘瑞季について、「あの子を見ていると自分が嫌になる」と言うのだが、彼女は自分の中に何かが欠落していることを自覚しているのであり、結局のところ、キルドレたちの間では、心のぬくもりや無償の信頼といったものは培われずに終わる。


 だから、ぼくは、映画を見終わった後で、キルドレたちは、犬に学ぶべきものがまだあったはずなのではないか、という感想を抱いた。
 映画のエンドロール前のラストシーンが印象的だったからなのだけど、犬がいちばん情が濃いだなんてね……。まったく……。
 犬は学ばせてくれるよ、犬に学ぼうよ……という無言のメッセージが重低音の如く響いているという点においても、『スカイ・クロラ』は、紛れもなく押井映画であった。