宮崎駿『ハウルの動く城』



ハウルの動く城 [DVD]

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 昨日のエントリをアップしてから、昨日は直観的な判断だけで前提としていた、「魔女っ娘アニメ」と「成長しない時間』(=反復する時間)」の相関関係について考えている。『おジャ魔女どれみ』は、『おジャ魔女どれみ♯』では、一応「成長」がテーマとされているようでもあるし、「魔女っ娘アニメ」は、ドジで間の抜けた女の子が魔法の修行をすることで成長するというストーリーを基本とするわけで、むしろ「成長」こそが大きなテーマとされてきたのではないか、という疑問が思い浮かんだからだ。ただし、一方で、『おジャ魔女どれみ』の通常回を見たときに、「これは『反復する時間』(東浩紀)の世界だ」と感じられたことも確かであり、それが何に由来するかといえば、『どれみ』において大きなウェイトを占める「変身」が、空想の世界の衣装を身にまとう想像の世界のものだという点が大きいように思う。
 「魔女っ娘アニメ」の典型として僕の頭に浮かぶのは、『ひみつのアッコちゃん』なのだけど、僕が見たのは第二作の1988-89年版で、これはどの回も「小学生の女の子が、大人のお姉さんに変身することで事件を解決する」というストーリーの枠組みは変わらなくて、変わるのは回ごとに変身する職業が違うだけというもので、子どもの心のままで大人の身体になるわけだから、当然子どもの心のままであることによる失敗やピンチがあるのだが、最終的にはうまく乗り切るお約束も鉄板だったように思う。で、これは将来「大人」になることを踏まえているし、事件を通じてヒロインは成長しているのだと捉えることもできるのだけど、一方でどんなものにでも「変身」できるというのは、いくらでも失敗が許される「反復する時間」が前提とされているわけだし、想像の世界では何にでもなれるという夢の世界の出来事なのだともいえ、鏡の精から変身コンパクトをもらうという設定も、この作品が想像の世界の物語であることを証明している。『アッコちゃん』を見ていくと、「魔女っ娘アニメ」には、「成長する時間」と「反復する時間」の二重性があり、かつ、どちらかといえば後者の方に強いアクセントが置かれているのだ、ということはいえると思う。
 「魔女っ娘アニメ」という枠からは外れるが、子どもの心のままで大人の身体に変身するという設定で思い出す作品として、北村薫の小説『スキップ』がある。これは17才の女子高生が、ある日目覚めると42才の妻子持ちの高校教師である自分の身体の中にタイムスリップしていたという疑似SF作品で、実際には42才の中年女性が25年分の記憶を失ったということなのだという現実的な医学的解釈が早い段階から示唆される。で、ヒロインはやはり高校教師である夫の勧めで教壇に立ち、国語好きの女子高生だったヒロインは教師としての役割をこなしてしまうのだけど、こうして見ていくと、これって「魔女っ娘もの」だったんだな、ということに気づく。
 『ハウルの動く城』もまた、子どもの心のままで大人の身体に変身する少女の物語だ。ソフィーは、荒地の魔女の魔法によっておばあちゃんの姿に変えられてしまうのだけど、映画を見ていくうちに、実際には、ソフィー自身も魔女であり、おばあちゃんの姿になるのは、荒地の魔女の魔法というより、彼女自身のメンタルの要素が大きいのだということがしだいにわかってくる。ソフィーの年齢は、彼女自身の精神状態によって微妙に変わっていくのだけど、ソフィーは物語の冒頭ではひどく緊張していたのに、おばあちゃんの姿になると、すぐに状況を理解し、事態を仕方ないことと割り切り、ハウルの城では生き生きと家事を取りしきる。おばあちゃんの姿になったことで、逆に彼女は何かから開放されたという描き方がかなり意図的になされているのだ。ソフィーが無意識の願望によるものであるにしろ、自分自身で年齢をコントロールできるということは、『ハウルと動く城』が「成長しない時間(反復する時間)」の物語であり、それこそ無時間性を象徴しているのではないかという疑念を抱かせる。むろん『ハウル』には、荒地の魔女という魔法で若さを装っているが魔法が破れると老醜を晒してしまう魔女も登場し、しかしここからが『ハウル』のすごいところなのだが、荒地の魔女は老醜を晒すようになってからむしろ魅力を増す。しかし、繰り返すが、ヒロインのソフィーが自分自身の願うままに自分の年齢をコントロールできる(「変身」できる)ということは、心の持ちようによって人は老人にも少女にもなれるのだという意味での身体(=現実)からの解放である一方で、身体の成長・変化という不可逆的な課程を歩みつつ、さまざまな出来事を経験しながら、精神的にも年齢に見合った心のありようを獲得していくのだという「成長」の観念をなしくずしにするものでもある。もちろん「成長」なんて幻想にすぎないのだという視点もありうるだろうが、『ハウル』が「魔女っ娘アニメ」の「反復する時間」性、無時間性を踏襲していることには、やはり問題があるように思う。(ちなみに、宮崎吾郎ゲド戦記』のアレンくんはなんであんなに死を恐れているのか、さっぱり理解できなかった。まだ若いんだし、「永遠の生命」なんてどうでもいいじゃん)
 前に「おばあちゃんの姿になったことで、ソフィーは何かから開放された」と書いたが、「何か」とは何なのかといえば、やはり「性」であろう。ソフィーは冒頭で兵士たちにナンパされて怯えているし、美しい風景を見ながら少女の姿に戻っていたのに、ハウルに恋愛感情を含んだ好意を示されるととたんにおばあちゃんの姿に逆戻りするという、印象的な場面もある。では、作品を通じてソフィーはそういうありようを変化させていったのかといえば、それは微妙なところで、結末においてソフィーは「キス魔」になる。ソフィーが男どもにキスをすれば物事はだいたい何でも解決するという超絶世界が展開されるわけで、これはどういうことかというと、ソフィーは「女」を飛び越えていきなりみんなのお母さん(=母)になったのだ、ということなのだと思う。北村薫『スキップ』もまた少女がある日突然、恋愛も出産もすっ飛ばして母親になるという話だったわけだけど、『スキップ』もやはり「性」に直面することを回避する少女の物語だったのではないかと思う。で、問題は、「性」に直面することを避けたいという少女の願望(「恋愛も出産もすっ飛ばして母親になる」という願望には、現代では一定のリアリティーがあると思う)と、生身の女の子なんかとは付き合いたくない、母親的に自分を庇護してくれる女の子と付き合いたいというオタクの男の子の願望とが、互いの都合においてぴったり一致してしまう点だ。本人たちがよければ別にそれでもいいのだけど、でも本当にそれでいいのか? オタクでひきこもりの魔法王子のハウルが空飛ぶ城でソフィーと寄り添っているというラストは、必ずしもハッピーエンドだとは僕には思えないし、映画公開当時はこんなことを辻褄立てて考えていたわけではないのだが、なんだか笑うに笑えないものを感じて、客席で笑いを引きつらせていたものであった。まあカップルなんて互いに欠落しているものを互いに補完できる関係の中でこそ成立するものだから、いいんだけどさ。
 まあ、こうして見ていくと、『ハウル』もまた「魔女っ娘アニメ」の系譜の中で優れた作品なのだということは確認できるし、「虚構」に力点を置いた作品と、「現実」に力点を置いた作品のどちらが好きかだなんてことは最終的には好みの問題でしかないと思うのだけど、しかしおそらくまっとうな批判意識をもって作られているという点では、『魔女の宅急便』や、細田守の「どれみと魔女をやめた魔女」などの方が評価できる作品なのではないかと、改めて思った次第だ。