動画で学ぶ映画史(1)―リュミエール兄弟、エジソン、メリエス



 リュミエール兄弟「The Lumiere Brothers' First films」(1895)



 映画が発明されたのは、1895年、リュミエール兄弟(フランス人)によるシネマトグラフの発明による。Wikiこちら。写真館を営んでいた兄オーギュスト・リュミエール(Auguste Marie Louis Lumière、1862-1954)、弟ルイ・リュミエール(Louis Jean Lumière、1864-1948)は、1895年、エジソンが発明したキネトスコープ(箱を覗き込む段階)を改良し、映像をスクリーンに投射するシネマトグラフを発明。1895年12月28日、パリのカフェに人を集めて上映した。
 動画はそのときのものだが、最初の映像(『工場の出口』)は人々がぞろぞろと工場から道に溢れ出てくる様子、2分30秒から夫婦が赤ん坊にご飯を食べさせている様子、3分40秒からカード遊びをしている紳士たちといった映像が映し出される。4分30秒、『列車の到着』では、人々はカメラに向かってくる汽車がスクリーンから飛び出してくるのではないかと大騒ぎになったという。それは無理もなくて、なにしろ初めて映画を見たものだから、みんな現実と虚構の区別がつかなかったわけだ。


 これらはすべて現実の記録映像であり、ドラマのストーリーが語られているわけではない。けれど、3分からの映像『水をかけられた散水夫』はちょっと違っていて、ホースを持って散水している人物が写されているところに、もう一人の人物が現れてホースを踏む。「あれ?出ないぞ」と不思議がってホースを確認しようとすると、いたずらしている人物が足をどけて、そうするとホースから勢いよく水が飛び出て顔に浴びる、というコメディーになっており、これはおそらく演技をさせているのではないかと思う。
 しかし、やはりリュミエール兄弟の映画は、記録映画、すなわちドキュメンタリーであり、兄弟はリュミエール協会を作って世界中にカメラマンを派遣し、世界中の国の様子を映像に記録していったという。いまでも世界を旅するドキュメンタリーはTVで放送されているけれど、リュミエール兄弟はドキュメンタリー番組の創始者でもあったわけだ。


 エジソン「Edison kinetoscope films 1894-1896」(1894-1896)



 発明王エジソンが撮影したキネトスコープのフィルム。撮影時期はリュミエール兄弟より早いわけだけど、残念ながら「映画の発明者」という栄誉を勝ち取ることはできなかった(エジソンと映画の関わりについては、映画サイト「映画中毒者の手記」「映画中毒者の映画の歴史(3) キネトスコープ」など参照)。箱を覗き込んで見るのと、スクリーンに投射された映像を見るのとではまったく体験の質が違うわけで、リュミエール兄弟の発明は大きかった。
 映像は、男女のキス、舞踏、ボディビル、ボクシング、闘鶏、鳩への餌やりと続くのだけど、これらもリュミエール兄弟と同様、記録映画/ドキュメンタリーの性格が強い。ただし、4分30秒からの「寄宿舎の少女」はいい。パジャマ姿の少女たちが枕投げをしている様子が写されているのだけど、うわ、すごくかわいいんですけど……。


 ジョルジュ・メリエス「Un homme de têtes」(1898)



 リュミエール兄弟ドキュメンタリー映画の製作にとどまったのに対して、映画で空想と虚構のドラマを制作した最初の人物が、映像の魔術師ジョルジュ・メリエス(Maries-Georges-Jean Méliès、1861-1938)。wikiこちら。のマジック専門サイト「ペーパー・ムーン」によれば、メリエスは、1888年に劇場を買い取り奇術師として活動していたが、1895年、リュミエール兄弟による世界初の映画の興行を目撃。自分でも映画を作りはじめる。
 上の動画は、奇術師が自分の頭をすぽっと取って机の上におき、しかしまたぱっと頭が現れ……というのを繰り返すことで机の上に八百屋のスイカのごとく頭が並んでいく、という映像。奇術師であるメリエスは、映画の技術を奇術師らしく使用して、奇術の道具にしてしまったのだが、頭が喋るのは「トーキング・ヘッド」という鏡を利用した古典的なマジックとして、ディゾルブ(多重露出)という映画の技術も使用しなければ、この映像は可能にならない。頭が最大で四つ並んでいるということは、四つのフィルムを重ねているということだ。


 ジョルジュ・メリエス「L'homme orchestre」(1900)



 この動画では、奇術師は七人に増える分身の術を使う。つまり、七つのフィルムを重ねているわけだけど、重ねすぎてなんだか空間がぐにゃぐにゃ歪んでいるようなw ともあれ、メリエスは、奇術に映画を利用するという遊び心から、ディゾルブやストップモーションといった映画のさまざまな技術を開発してしまったようで、瓢箪から駒という感じだ。芸術的な意図から発明されたわけではないのだ。


 ジョルジュ・メリエス「The Conjuror」(1899)



 マジックではお馴染みの空間移動は、映画なら簡単にできる。カメラを一度止めてその間に移動し、移動し終わったらまたカメラを動かせば、フィルムを見たときには瞬間移動したように見える。


 ジョルジュ・メリエス「Les cartes vivantes」(1904)



 カードの数字がボードに移り、ボードに描かれた女性の絵が現実の女性に早変わりする。このように、メリエスは、映画で奇術をやってみせたのだけど、もちろんこれは人々が映画に慣れてないから驚くだけで、いずれ通用しなくなるものにすぎない。


 メリエス月世界旅行」(Le Voyage dans la Lune、1902)



 メリエスのもう一つの偉大な点は劇映画を作った点である。1902年の「月世界旅行」(Le Voyage dans la Lune)は、複数のシーンがあり、ストーリーがあるという二点において画期的な映画であり、また、世界初のSF映画でもあった。


 フェルディナンド・ゼッカ「或る犯罪の物語」(仏、Histoire d'un crime、1901)



 パテ社を率いるシャルル・パテは、映画の娯楽的興行的価値に目をつけ、1900年、フェルディナンド・ゼッカ(Ferdinand Zecca)に映画を制作させ、多くの収益を得た。『或る犯罪の物語』(1901)は、強盗殺人のシーンから始まり、犯人が逮捕され、5分17秒のシーンでギロチンにかけられて処刑されるまでを描いている。劇的なドラマを描く映画の最初のものであり、演出もメリエスのような幻想的なものではなく、写実的でショッキングなものとなっている。
 映画史初期フランス映画@私の小さな文化村によれば、1900年代、パテ社は週5本の割合で映画を制作し、「安いコスト、世界的な配給網の確立、激増するアメリカのニッケルオデオン(5セント劇場)の利用、縁日のお祭りの独占」によって、映画興行の世界を支配した。


 ただし、メリエスやゼッカの時点では、カメラは固定されたまま、映像が切り替わるのは、「月世界旅行」においてシーンが変わる時点の数度だけである。固定されたカメラのフレームの中で役者たちが演技をしているだけであり、これではたんに「演劇の記録」であって、映画が、映画独自の固有の言語、つまり、ストーリーを語る方法を獲得したとはいえない。
 映画が映像だけでストーリーを語れるようになるには、ショットの概念の確立が不可欠であり、それはこの時点ではまだなされていなかったのである。